淀殿の性格は江戸時代に作られた虚構だった!?

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近江の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹で戦国時代一の美女としても有名なお市の方との間に生まれた淀殿(本名:茶々)。

茶々、初、江の3姉妹の中で最もお市の方に容姿が似ていたことから、天下人となった秀吉に側室として迎えられたといわれています。

あまりいいイメージを持たれていない彼女ですが、本当の性格はどんなものだったのでしょうか。

造られた悪女のイメージ

淀殿は源頼朝の妻・北条政子、足利義政の妻・日野富子と並んで日本三大悪女に数えられています。

そこには、豊臣家が衰退し、滅亡に向かった理由として、淀殿が江戸幕府の臣従を拒否し、寺社の修造などに豊臣家の財産を浪費したからだという考えがあるようです。

他にも、秀吉の正室・お寧と対立していたとか、大坂城の実権を事実上掌握していたとか、大坂の役のときには真田幸村ら有能な諸将の意見に耳を貸さなかったとかいう理由から、淀殿は鼻っ柱が高く高慢で、愚かな女性とイメージされることが多いのです。

しかし、こうした彼女の”悪女”としてのイメージは実際のことではなく、江戸時代に”造られた”ものであると考えられています。

「淀殿は悪女であるので、その淀殿が実権を握る豊臣家は滅ぼされて当然である」として、秀吉との約束を破り豊臣家を滅ぼした家康の行為を正当化しようとしたのです。

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淀殿は「淀君」へ

淀殿という呼称よりも淀君という呼称のほうがなじみがあるという人も多いと思います。

「○○君」という呼び方は『源氏物語』でも「紫の君」や「光る君」などと使われていますし、「姫君」という言い回しもありますから、女性の呼称として違和感を覚える人は少ないでしょう。

しかし、この「淀君」という呼称は、江戸時代になってから使われるようになったもので、同時代には「淀のもの」「淀の女房」と呼ばれていたようです。

それが「淀君」と呼ばれるようになったのはこれもまた江戸時代。

江戸時代に入り「淫乱」という蔑視表現を使われるようになった淀殿は、秀頼は実は石田三成との間にできた子だとか大野治長と密通していたとか言われるようになったのです。

当時路傍に立つ夜鷹(よたか。売買春を目的に辻に立つ遊女)を「辻君」というのと同じ意味合いで「淀君」と呼ばれるようになったと考えられています。

今なお続く法要

大阪市北区にある太融寺の淀殿の墓には、毎年命日になると白ユリが供えられています。

供えているのは淀殿の故郷・福井県小谷の人たちなんだそうです。

淀殿は燃え盛る大坂城の中で、自分の侍従の女性たちに「ここから逃げなさい」と言って秘密の抜け穴で逃亡させ、命を助けたといわれています。

その人たちの子孫が今なお淀殿の好きだった白ユリを供えにきているのです。

しかも、こうした供養は監視の厳しかった江戸時代にも行われていたそうで、淀殿が侍女たちに非常に慕われていたことがうかがえます。

そういえば、大坂冬の陣で淀殿が和議に初めて応じたきっかけも、本丸に放たれた砲弾による侍女8名の死でした。

確かに大坂の役での敗北は淀殿の戦略ミスな面が否めませんが、彼女なりにみんなを守ろうとする必死の姿が伝わってきます。

責任感の強い女性像

江戸時代に造られた「淀君」像を取り払って彼女の生涯を見てみると、そこには責任感の強い女性としての淀殿の姿が見えてくるように思います。

幼くして父を失い、母や妹と共に戦国の動乱の中で何とか生き延び、秀吉に嫁いでからは世継ぎを産むという最大の責務の中で秀頼を産み育て、最後には秀吉の遺志である豊臣家存続のため奮闘したのです。

長女として、側室として、さらには母として、なんとかその責任を全うしようという強い意志をもった女性だったといえるのではないでしょうか。

彼女なりに考え行動した、その結果がたとえ敗北であったとしても、彼女の生涯や人柄までも否定するようなことはあってはならないことのように思うのです。

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