山県昌景の赴くところ敵なし!名将が指揮した最強精鋭部隊、武田の赤備え

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武田四天王の1人でもあり、赤備え部隊の指揮者として有名な武将、山県(源四郎/三郎兵衛)昌景。

主君の武田信玄からは「源四郎の赴くところ敵なし」と称賛され、徳川家康は三方ヶ原の戦いで敗走した後に「さても山県というは恐ろしき武将」と慨嘆したとか。

”武田の赤備え”も、武勇に秀でた山県昌景が率いたからこそ、最強の名声を得ることができたとも言われます。敵味方を問わず絶賛された名将。そんな山県昌景が率いる赤備え隊は、実際どんな集団だったのでしょう。

非業の死を遂げた兄、飯冨虎昌の赤備え隊を引き継いだ山県昌景

全員が朱色の軍装で統一された部隊、武田の赤備えを最初に編成したのは信玄統治期前半における重臣、飯冨(おぶ)虎昌(1504~1565)です。

飯冨の赤備え部隊は全て騎馬武者であり、武家の次男以下で構成されていました。

当時、甲冑等を朱に染めるのに使われた顔料は、辰砂(しんしゃ)または丹(に)と呼ばれる貴重な高級品。足軽の武装などに使用する余裕はおそらくありません。次男以下というのにも理由があります。彼らは家を背負っておらず、戦場での槍働きに命を懸けることができたからです。

また、逆の見方をするなら、戦国の世では槍働きこそが彼らの人生を活かせる道であるとも言えました。手柄さえ立てれば出世も可能です。飯富虎昌はそんな若武者達を集めて、合戦で縦横無尽に活躍できる部隊に育て上げたのです。”甲山の猛虎”と渾名されるほど、自身も勇猛果敢なことで知られた虎昌ならではの着想だと思います。

ところが、1565年(永禄8年)10月、虎昌は傅役を務めていた武田家の嫡子義信を担ぎ、謀叛を企む動きの首謀者とされて切腹を命じられます。彼の手勢はすべて弟(甥とも)の飯冨三郎兵衛昌景に引き継がれ、その中に赤備えの騎馬隊も含まれていたのです。

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虎昌の死後、昌景は山県姓を与えられ信玄公に尽くす

この事件で飯冨家は断絶し、昌景は信玄公から当時絶えていた山県氏の名跡を与えられることに。飯冨昌景から山県昌景へと名乗りを改めました。

後の書物『甲陽軍鑑』では虎昌は義信の傅役として謀叛に加担せざるを得なかったものの、わざと弟に聞こえるような大声でその話をしたとされています。律儀者の昌景が主君にこれを報告し、虎昌が切腹を命じられたという訳です。昌景は、兄の死の責任は自分にあると、その後長らく苦しんだとも書かれています。

この話の真偽は分かりませんが、これはちょっと作り話っぽいような気がしますね。けれども、この事件の後、昌景が兄以上に献身的な態度で武田信玄に尽くし、重臣として政治面でも軍事面でも支えたのは事実です。

また、こんないきさつで兄の軍勢を引き継いだ昌景の指揮に、虎昌の遺臣が従っていたのも注目に値する出来事でしょう。
この時、昌景の手勢は、虎昌の同心だった50騎を含めおよそ500騎になったと言います。その50騎が、鍛え抜かれた赤備え騎馬隊だったのでしょうか。

このあたりの事情から推測してちょっと穿った見方をお許し頂ければ、”山県昌景の赤備え”、その合戦でのめざましい活躍ぶりは、無言のうちに何かを語っているような気がします。

それは山県昌景と飯冨旧臣の、信玄そして武田家に対する忠誠の証。そう考えることも可能ではないでしょうか?

また、もし飯冨虎昌に謀叛の心がなかったというのが事実なら、赤備え部隊は昌景にとって兄の潔白を言葉ではなく、行動で代弁するよすがだったかもしれません。

まあ、これは本当に想像の域を出ませんけれども、ついそんな考えも浮かんできてしまうような経緯だなと思います。

最盛期には1,000騎ほどにもなった?武田の赤備え騎馬隊

『甲陽軍鑑』の記載によると、武田家中では山県隊の後に小幡信貞と浅利信種率いる赤備え部隊も作られ、その数は合わせて千騎とあります。

果たして騎馬の精鋭部隊が千というキリの良い数字で揃うのか、個人的には大いに疑問を感じますけど、細かいところにはツッコミを入れないことにしましょう。

まあその位の数だったんだろうな・・というところでしょう。最初は50騎だったのをどうやってそこまで増やしたの?という疑問も湧きますが、そういう謎や千騎に至る経緯などを映画やドラマなどで描いてくれたら、更に面白そうですし。

しかし、これは怖そうなイメージですね。ド目立ちする朱色の甲冑を着た騎馬武者が1,000。赤は膨張色で人数が多く見えるという証言もあり、馬もいることでなおさら頭数は多く見えたでしょうしね。

その上、指揮を取るのは歴戦の甲州軍団でも最強の1人と目された山県昌景です。他国の兵が赤備えと聞いただけで震え上がったとか、見るだけで戦意を失って逃げ出したというのも、分かる気がします。

こうして赤備え隊は実戦での活躍だけではなく、武田軍のイメージ戦略にも一役買いました。武田=騎馬隊という印象が強固に定着したのも、赤備え部隊の存在が原因かもしれません。
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三方ヶ原の戦いで、家康の脳裏に焼き付けられた山県と赤備えの印象

元亀3年(1572年)、三方ヶ原の戦いで敗北を喫し退却する徳川家康を、武田の馬場信春隊と山県昌景隊が追撃します。彼らは浜松城まで追走したのち家康の『空城の計』によって引き返す訳ですが、冒頭にあげたように家康に「恐ろしい!」と言わせたのは山県の方でした。馬場信春だって鬼美濃と呼ばれた強者なんですけどね。

私は、家康の恐怖心が高まった一因に、”赤備え”のインパクトの強さもあるかも?と思っています。

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ナカガワ マスミ

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投稿者プロフィール

戦国時代から昭和史まで、歴史には幅広く興味を持ち、色々調べ出したら止まりません。
合戦の話も好きですが、文化史が特に好き。そういう意味では平安中~後期も愛していますね。
皆様にも是非「歴史って面白いんだ!」と思って頂きたいと思いながら、記事を書いています。応援よろしくお願いします。

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