毛利輝元は本当に無能!? 彼の生涯からの再評価!

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哀しいかな、「無能」の一言で片づけられることが多い(というかほとんど)毛利輝元。

果たして、彼は本当に無能だったのでしょうか。

よくよく調べたら実は…なんてこともありえるのでは?という期待を胸に、輝元の人生を見ていこうと思います。

輝元の生涯(前半生)

毛利隆元の息子(祖父は元就)として生まれた輝元は、幼くして父を失います。その後彼を支えたのは、二人の叔父:小早川隆景と吉川元春でした。

有能な叔父二人のサポートは非常に大きく、輝元は、近隣大名の尼子勝久や大友宗麟らとの戦いに勝利し、勢力を拡大していきます。また、織田信長に追われた室町幕府将軍・足利義昭を保護し、1576年(天正4年)の第一次木津川口(きづがわぐち)の戦いでは信長に対して勝利をおさめました。

しかし、1580年(天正8年)の三木合戦において、友好関係にあった別所長治が自害し、その後鳥取城が攻められ家臣の吉川経家を失ってしまい、徐々に苦境に立たされてゆきます。

1582年(天正10年)に豊臣(当時は羽柴)秀吉と備中高松城の戦いで対決しますが、戦の最中に本能寺の変が起こったことで、秀吉は和睦を提案します。

その際に、毛利の武将はみな調略を受けていると伝えてきたため、輝元は疑心暗鬼になってしまい、和睦せざると得なくなってしまいました。この後、毛利は反織田・豊臣路線を転換していきます。

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輝元の生涯(後半生)

秀吉と柴田勝家との間に起きた争いにおいては、輝元は中立を保ちました。その後の四国攻めや九州征伐では武功をおさめ評価を上げますが、1586年叔父の吉川元春を病で亡くします。秀吉から五大老に指名され、秀頼の補佐を託されるほどの信頼を得るまでになりましたが、1597年今度はもう一人の叔父:小早川隆景を失ってしまいました。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいては、安国寺恵瓊の説得にあっさりと応じて総大将を引き受けてしまいます。この時の決断は周囲に相談がなかったといわれています。

そして大坂城に入城しますが、自身の出陣はありませんでした。結果、実質石田三成が率いる西軍は敗北し、立花宗茂らの主戦論を容れることもなくあっさりと大坂城から退去してしまいます。この結果、120万石から周防・長門の37万石へ大減封となるのでした。

同年、輝元は出家し、幻庵宗瑞(げんあんそうずい)と称します。しかし、実質上の政務はいまだ彼が執っていました。また、関ヶ原の戦いなどによりばらばらになりかけていた体制を強化し、家中の浄化に努めます。そして、倹約と新田開発によって、10万石以上も石高を上げました。

輝元の再評価

輝元の評価は、関ヶ原以前と以降では違うと思います。ごく初期は叔父2人が健在でしたから、それなりに戦でやってこられましたが、2人がいなくなった後の関ヶ原の戦いでは、総大将として残念な態度を取ってしまいます。

彼がスパッと判断して、出撃するなり籠城戦に持ち込むなりすれば、戦況は変わっていたはずです。すみませんでしたとあっさり退去してしまったことで、世間は彼を「無能だ、弱腰だ」と思ってしまいました。

一方、出家後の内政では手腕を発揮しました。これが長州藩の礎となっていくわけですから、ここは大いに評価すべきところではないでしょうか。

きっと、輝元は内政向きの人物だったのでしょうね。もう少し平和な世の中に生まれていたら、良い殿様だと言われたのではないかなと思うのです。

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xiao

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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