長州征伐で切腹させられた3人の家老とは?

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1864年7月23日、幕府は征長軍を組織して長州藩に攻め入りました。これが第一次長州征伐です。

征長の理由とされたのは、同じく1864年7月19日に起きた禁門の変(蛤御門の変)です。藩主・毛利敬親と定広親子にその責任を追及し、長州藩邸の没収や二人の謹慎を命じる目的でした。

この長州征伐では直接の戦闘行為はなかったたのですが、3人の家老が切腹させられています。

3人はどのような人物だったのでしょうか。なぜ切腹を言い渡されることとなったのでしょうか。

3人の家老

切腹させられた家老は、国司親相、益田親施、福原元僴のことで、禁門の変において上京した3人でした。

国司親相(くにし ちかすけ)

1842年、親相は長州藩の家臣団の中でも重臣の家柄である寄組の国司家の次男として誕生しました。家柄もさることながら、親相自身とても聡明だったため、次第に頭角を現し、家老にまで昇格しました。

八月十八日の政変で長州藩が京都から追放になると、京都における勢力挽回を目指して挙兵(禁門の変)。しかし、あえなく敗退してしまい、責任の方法を藩主にゆだねるため、玉砕をさけて帰藩していました。

益田親施(ますだ ちかのぶ)

1833年、長州藩永代家老・益田家の三男として誕生しました。父と兄の死去により家督を継ぐと、攘夷を幕府に訴えるとともに、上洛して過激な尊王攘夷運動を推し進めようとしました。

八月十八日の政変が起こると、親施は一時長州へ帰国。その責任をとる形で領地の阿武郡須佐にて自主謹慎にはいっていました。

福原元僴(ふくはら もとたけ)

1815年、徳山藩主・毛利広鎮の六男として誕生しました。その後家老に昇進した際、長州藩永代家老・福田家の家督を継承しています。

八月十八日の政変が起こると、尊王攘夷運動を推進していた元僴は、久坂玄瑞らと協力して挙兵。その際負傷し、帰国していました。

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直接的戦闘を避けるための切腹

長州征伐の目的は、前でも触れたように藩主親子に責任を追及し、罰を受けさせることでした。それがなぜ3人の家老の切腹という形になってしまったのでしょうか。

この長州征伐の総督は尾張名古屋藩主・徳川慶勝でした。彼は平和的手段でこの問題を解決すべく、薩摩藩の西郷隆盛に意見を求めました。

その時、西郷が示した意見というのが、「長州の責任者を処分して謝罪させれば、大軍を動かし武力に訴えるまでもないでしょう」というものだったのです。

西郷は数カ月前に行われた勝海舟との会談により、内戦している場合ではないという考えを持っていたともいわれており、長州征伐に参加した諸藩も、外患に悩まされている時に内憂のことで時間もお金も浪費したくなかったので消極的だったとも考えられているようです。

また、ここには「寛大な処置を下すことで、長州藩に恩を売り、将来の布石としよう」という西郷の思惑があったとも考えられています。

こうして、11月11日徳山藩において国司親相と益田親施が、翌12日には岩国藩において福原元僴が切腹することとなったのです。

3家老の切腹が長州藩に与えた影響

幕末の長州藩は「正義党」と呼ばれる改革派と「俗論党」と呼ばれる保守派に分かれ、政権を奪い合っていました。

正義党の中心であった3家老が切腹すると、俗論党のトップであった椋梨藤太は、正義党根絶のために野山獄に拘束されていた正義党の要人を斬首や切腹に処していったのです。

これにより多くの有能な人材が失われることとなりました。

椋梨のこうした動きは、以前に俗論党の坪井九右衛門が正義党によって切腹させられたことの降伏であるとも考えられていて、長州藩は政権交代のたびに流血の報復合戦が行われる「内紛状態」であったと言えるのではないでしょうか。

ともかく、3家老の切腹という形で直接的戦闘を避け、「平和的」に解決したことは、幕府の巻き返しが中途半端な形で終わってしまい、長州藩のその後の躍進のための余力を残してしまいました。

そこには「長州藩取り潰し」「領土の大幅削減」もしくは「転封」という徹底的なダメージを求める幕府の要求を、「長州藩に恩を売りたい」がために回避させた西郷隆盛の思惑があったのです。

もし、この時3家老の切腹を西郷が提言しなければ、すでに内紛状態にあった長州は自滅の一途をたどり、明治維新の一翼を担うことはなかったかもしれません。

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