毛利元就の三本の矢の息子達とその生涯とは

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毛利元就は安芸の国に生まれた稀代の謀将とも言われています。暗殺や偽情報を流すなどあらゆる手段を使って中国地方を手中にした謀神・毛利元就。しかし、幼い頃は家臣に所領を横領され「乞食若殿」と蔑まれた時期がありました。謀略家と言われる毛利元就で最も有名な話が「三本の矢」です。元就の三人の息子とは、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景のこと。では、三人の息子のその後の半生と、三本の矢の教えはどう生かされたのかを検証してみましょう。

嫡男・毛利隆元

元就が隠居した後、家督を継ぎますが実権は元就が握ったままでした。温厚な性格で偉大な父からもあまり評価されず、武勇に華々しい弟達の存在には苦悩していたようです。

優れた内政手腕を持っていましたが父親の影に隠れ、目立たない存在だったようです。しかし、毛利家の存続や勢力拡大に尽力していました、特に財政面に関しては、父・元就や弟達よりも信頼が厚かったようです。縁の下の力持ちとして毛利家を支えました。

1563年、尼子攻めの途中で立ち寄った備後の和智誠春の宴席の後、急死。父の元就よりも早い死でした。

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次男・吉川元春

元服前に吉田郡山城の戦いに参戦し初陣を飾った猛将。1550年、吉川家の家督を継ぎました。その時の当主・興経は問題のある人で、父・元就を嫌っているだけでなく、譜代の家臣達とも上手くいっておらず、元就の策略で家臣を買収し元春を養子にします。

そして、興経を失脚させました。多くの戦いを経験しましたが負け知らずだったとも言われています。吉川家と弟の小早川隆景の小早川家が一丸となって「毛利両川」として、長男・隆元、輝元親子を助けました。1586年、病死。

三男・小早川隆景

幼い時から父に似た才覚を持っていました。10代になると父の策略に加担できる程の才能を開花させていきます。小早川家に養子に入り、地元の水軍勢力を統合。小早川氏は毛利一門になり、毛利家直轄の優秀な水軍となりました。この間にも反毛利の勢力は粛清されていきました。兄・元春と共に毛利両川体制を作り上げていきました。

1597年、急逝。

三本の矢の教え

元就が死に際に三人の子供達を集め「一本の矢なら簡単に折ることが出来るが、三本になると簡単には折れない。この三本の矢の様に兄弟三人力を合わせよ」これが有名な三本の矢の教えですが、この話には無理があるのです。元就は長生きで、1571年74歳まで生きていました。ところが嫡男の隆元は元就よりも早い1563年に亡くなっているのです。

この逸話は現在では、江戸時代に創られた話と言われています。

しかし、元就は、隆元・元春・隆景に十四ヵ条からなる「三子教訓状」を書き残しています。これが「三本の矢の教え」の元になったとされています。

この「三子教訓状」を元に次男・元春、三男・隆景は長兄・隆元、息子・輝元を助け、補佐し「毛利両川」と呼ばれています。三本の矢の教えとは少し違いますが、元就の教えは息子達に伝わっていたようです。

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