毛利勝永の子孫たち 大坂の陣の後はどうなった?

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毛利勝永は、大坂の陣において真田幸村らとともに大変活躍した武将です。

しかし、真田幸村や後藤基次らの武勇伝に比べるとその活躍や最後についてあまり知られていません。

本来なら、彼の活躍はもう少し脚光を浴びてもいいのではということで彼にスポットライトを当てていきます。

大阪の陣での毛利勝永の活躍

毛利勝永は関ヶ原の戦いでは父と西軍側として戦ったため、戦後には改易、そして四国の山内家にお預けになります。

しかし、慶長2年(1614年)、豊臣秀頼から大阪城へ招かれ山内家から息子の勝信とともに脱出し、大阪城へ入城しますが、大坂冬の陣では、真田丸での戦い以外は大きなものはなくすぐに講和が成立しました。

続いて発生した慶長3年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川方によって、冬の陣の後外堀を埋められた大阪城から打って出ました。

5月6日に発生した道明寺の戦いでは、後藤基次の援護には間に合わなかったものの後藤基次が討ち死にした後の兵士を吸収した真田隊と徳川方と誉田のあたりで対峙します。

局地的な戦闘の後、正午過ぎになると、大阪城から八尾、若江方面での敗戦が伝えられ撤退命令が出ます。

あくまでも伊達隊と戦い、討ち死にすると言い張る真田幸村を「ここで討ち死にしても無意味。せめて秀頼様のみている前で討ち死にしようではないか」といさめたとされています。

このとき、真田幸村49歳、勝永39歳でした。このことからも、毛利勝永が冷静で落ち着いて戦況をみていたかがわかりますね。

続いて、5月7日の天王寺口での最終決戦では、豊臣方が起死回生で勝つためには、家康を討ち取るしかないという状況で毛利勝永は果敢に家康本陣へ打ち込みます。

その気迫に慌てふためいた家康の家臣たちを尻目に、家康本人の間近まで肉薄したのです。しかし、やはり兵力に勝っていた家康軍に包囲され、戦況は悪化。そして、自らが殿を務め、大阪城へと撤退しました。

大阪5人衆のなかでは最も若かった毛利勝永の見事なまでの戦況把握能力と巧みな戦術には感嘆しますね。

この毛利勝永が、真田幸村ほどに名前が知られていないのが不思議なくらいです。

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毛利勝永の最後

大阪城へ撤退した毛利勝永は、真田幸村も討ち死にし浪人をかき集めた兵は離散し、もはやこれまでと覚悟を決めました。

そして、翌5月8日、燃えさかる大阪城の中で豊臣秀頼は自害。

このとき、毛利勝永が秀頼の介錯をしました。

秀頼の死を見届けたあと、毛利勝永は、蘆田矢倉で息子勝家とともに自害して果てました。享年39歳。

毛利勝永の子どもたち

毛利勝永の嫡男勝家は、父勝永とともに大阪城落城の際、自害しました。享年16歳。

そして、次男毛利太郎兵衛は、大坂の陣の際には、土佐に残っていましたが、その後京都へ移され、この地で斬首されました。享年9歳。

勝永の弟毛利吉近は、勝永とともに大阪の陣に参加したとも言われていますが、その真偽は定かではないとされています。

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