源義経を献身的に仕えた弁慶 2人の主従関係とは?

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弁慶は京都の五条大橋で源義経と出会い、義経の最後まで仕えたとされていますが「吾妻鏡」などの歴史書には、弁慶に関わる記載がほとんどありません。

そのため、弁慶は実在しない人物ではないか?とも言われていますが、『義経記』や『勧進帳』といった創作の物語で弁慶は大活躍しています。

今回は、義経と弁慶の逸話を中心に2人の関係について、お話します。

源義経と弁慶 2人の出会いはどんなものだったのか?

『義経記』という書物に、源義経と弁慶の出会いにまつわる逸話が残されています。

弁慶は比叡山の僧でしたが乱暴な性格が災いし、山を追い出されてしまいました。

京都にやってきた弁慶は、道行く者を襲って千本の太刀を集めようと思い立ちます。

ついに999本まで太刀を集め、あと1本というところで、五条大橋で笛を吹きながら歩く源義経と出会います。

源義経は、見事な太刀を持っていました。義経はこのころ、18歳。

弁慶は「楽勝だ」と高をくくって挑みますが、源義経は橋の欄干を飛び回り、とても身軽で捕えることができません。

義経は、弁慶に馬乗りとなり弁慶に「家来になるか?」と聞きます。

子供だと思っていた義経に返り討ちに遭い、弁慶は降参して家来になることを誓うのです。

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源平合戦での英雄が一転 逃亡者に 奥州へ逃げる源義経

弁慶は、源義経の忠実な家来として源平合戦で活躍します。

しかし、源義経は兄・源頼朝から、その存在を恐れられるようになり、義経討伐の命令をだされてしまいます。

そこで、源義経は、弁慶などの数名の家来とともに、縁のある奥州へと逃げるのです。

有名な歌舞伎の演目『勧進帳』では、この様子が描かれています。

源義経たちは、北陸から奥州へ逃げるため、加賀国の安宅の関(石川県小松市)にやってきました。

この関所を、一行は山伏の姿で通り抜けようとしますが、関所を守る役人の元には、既に義経たちが山伏姿で逃亡中であるという情報が届いていました。

そこで役人は「山伏は通行できない」と言い渡します。

憤慨した弁慶は、焼失した東大寺再建のための勧進(人々に寄付を募る)を行っていると言うと、役人は「では、勧進帳を読んでみよ」と命じます。

弁慶は、持っていた何も書かれていない巻物を、勧進帳であるかのように、つらつらと読み上げました。

役人は、その後も山伏の心得や秘密の呪文を質問しますが、元々比叡山の僧だった弁慶は、難なく答えます。

役人は通行を許可するのですが、荷物持ちに扮していた義経が「怪しい」と疑いがかかります。

そこで、弁慶は主君である義経を「お前がいるから、関所を越えることができないではないか!」と、思いっきり杖で叩きます。

あまりの迫力に気圧され、役人は義経たちが関所を通ることを許しました。

その後、弁慶は義経に無礼を働いたことを涙ながらに詫びますが、義経は弁慶の機転を褒め、感謝します。

源義経と弁慶 2人の最後は

無事に奥州に到着した源義経たちは、このころ奥州を支配したいたのは奥州藤原氏三代の秀衡でした。

源義経は、衣川の館を与えられ、少しの間ですが平穏な日々を過ごすことができました。

しかし、義経を匿っていた秀衡が「源義経を大将軍として国を治めるように」と遺言し、病死してしまうのです。

息子である四代泰衡は、父・秀衡の遺言には従わず、源義経の館に攻め込みます。

義経の家来たちは、弁慶を始め武術に秀でた者ばかりでしたが、その数はわずか10名。対して、屋敷を襲撃した兵は500騎でした。

多数の敵兵を相手に弁慶は、義経がいるお堂を守って戦いますが、ついには無数の矢を受けて仁王立ちのまま死んだとされます。

義経は「もはやこれまで」と最後に法華経を読み、同行していた妻と4歳になる自身の子供を斬った後に、自害しました。

義経の首は、鎌倉に送られた後、神奈川・藤沢の白旗神社付近に埋葬されたと言われています。

胴体は、沼倉判官森(現在の宮城県栗原市)に丁寧に葬られたとされており、この判官森の裏手には、弁慶森があります。

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