源頼朝像はまったくの別人!?

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1192年に征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府を創始した源頼朝。

そんな彼の肖像画としてよく知られているあの絵はまったくの別人だった!というのはもうすでに定説とされています。

ではあの人物は誰なのでしょうか。

「源頼朝」と信じられた理由

そもそもこの肖像画を「源頼朝」と比定するようになったのは、明治時代にさかのぼります。

この文化調査により、京都神護寺に収められている三幅の画は『神護寺略記』の「神護寺の仙洞院に、後白河院、平重盛、源頼朝、藤原光能、平業房らの肖像があり、それらは藤原隆信の作品である」の記述を参考に、それぞれ平重盛、源頼朝、藤原光能に比定されたのです。

さらに「源頼朝像」に限って言えば、大英博物館に明らかに神護寺の「源頼朝像」を模写したとみられる肖像画があり、この賛に「頼朝像」と明記されていたため、長く「源頼朝」として信じられてきました。

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「別人説」の登場

こうした中で別人説を最初に唱えたのは米倉迪夫氏です。かれは自著『源頼朝像 沈黙の肖像画』(2006,平凡社ライブラリー)において、源頼朝像が別人であることを提唱しました。

『神護寺略記』で作者とされている藤原隆信は、鎌倉時代初期に活躍した人物ですが、同時代の「伴大納言絵巻」や「鳥獣戯画」などと比べて、「源頼朝像」を含む神護寺三像はあまりに精緻すぎるということから、元々その成立時代に関しては疑問が呈されていました。

また、美術史家の源豊宗氏も、冠の形、畳の模様と枚数、絵に用いられている絹の大きさから神護寺三像は鎌倉後期のものと論じています。

確かに「伴大納言絵巻」の人物描写と比べると、素人目で見ても「源頼朝像」は少々上手すぎる感じがします。

では誰なのか

米倉氏は、この「源頼朝像」は足利尊氏の弟・足利直義であるとしています。室町幕府の初代将軍として知られている足利尊氏ですが、その弟・直義は尊氏を補佐し、北朝の行政を担当した人物です。

米倉氏は源氏の論に賛同し、成立時期を鎌倉時代後期以降であるとした上で、『足利直義願文』に触れています。

神護寺に収められている『足利直義願文』には「征夷将軍(足利尊氏)と自分(直義)の影像を神護寺に安置します」と記してあります。通常2人の肖像を作成する際、右に上位者、左に下位者を配置するので、左向きの像が「足利尊氏」となり、右向きの「源頼朝像」は足利直義にあたるというのです。

「足利尊氏像」とされる肖像画に残された折り目

この「源頼朝像」を「足利直義像」とする説の面白いところは、「足利尊氏像」に比定された肖像画にあった折り目にについても検証している点にあると思います。この折り目に注目したのは、米倉説を支持した黒田日出男氏です。

彼は米倉氏が「足利尊氏像」とした肖像画に大きな欠損と折り目があるのは、直義が二頭政治のパートナーを尊氏からその子・義詮に替えた際、義詮の肖像画を代替に作成したため「足利尊氏像」が用済みとなったからであると説いています。

そうであれば、左向きの肖像画が二枚存在することも納得できますし、神護寺に現存しているのが3枚なことも合点がいくように思われます。

神護寺は米倉説を否定

米倉氏の唱えた「別人説」は黒田氏により補足され、教科書ですら古くから「源頼朝像」として馴染み深いこの絵を「”伝”源頼朝像」と記すようになっています。しかしながら神護寺は米倉・黒田説に反論する美術史家の人たちの意見に賛同し、HPにも掲載しています。

しかしながら、「源頼朝像」が「足利直義像」で、「平重盛像」が「足利尊氏像」であったとしても、これら神護寺三像と呼ばれる三つの肖像画が歴史的に価値が有るものであることには変わりなく、むしろ明らかな肖像画がなく、それまで「尊氏像」として信じられていた肖像画が今や「騎馬武者像」と記されるに至ったことを考えると、大発見と言ってもいいのではないかと私は思います。

それとも、天皇に刃を向けた”朝敵”足利尊氏よりも武家政権を樹立した源頼朝のほうが神護寺としては誇らしいということでしょうか。

とはいえ、米倉・黒田説が真相として受け入れられ、「源頼朝像」が「足利直義像」として教科書に掲載されるようになったとして、それに違和感を感じずにいられるかと言われると自信がありませんが。

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