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源頼朝の死因は落馬だった!?

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鎌倉幕府の初代将軍として知られている源頼朝。1192年に征夷大将軍に任命された頼朝は、そのカリスマ性により鎌倉幕府の草創期を率いました。

そんな頼朝は1199年1月13日に死去していることは多数の資料で一致しているのですが、そのの死因には諸説あり、現在も決着がついていません。

頼朝の死因は何だったのでしょうか。

吾妻鏡の唱える「落馬」説

吾妻鏡は鎌倉時代に成立した歴史書として鎌倉時代を研究する際の最もメジャーな史料です。編纂者は幕府の中枢の者とされていますが、それに記されている頼朝の死因は「落馬」というなんとも残念なものなのです。

1198年、頼朝は相模川にかけられた橋の落成供養に出席した帰りに落馬します。そしてその17日後に死去しています。

戦では前線で戦うことのなかった頼朝ですが、武芸には長けていたと言われています。そんな彼が何もないところで落馬とは少々疑問が残ります。

この落馬説もさらにいくつか分かれており、「脳卒中」などにより落馬したとする説、落馬により頭を怪我し脳内出血を起こしたという説があります。

また、猪隈関白記にある「飲水の病」というのを参考にして考えれば、落馬により脳の中枢神経を損傷し、尿の量が多量となる尿崩症になったとする説もあります。

 

また、承久記に「水神に領せられ」とあることや、保暦間記に「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記していること、さらに頼朝が落馬したとされる相模川の河口付近に「馬入川」と呼ばれる川があることから、馬が暴れて川に入り、そこで落馬した頼朝が水を飲み過ぎたことが死因とみる説もあります。

頼朝といえば、源平の争乱で荒廃した東大寺を再興すべく活動していた重源に多額の浄罪寄附を行った仏教信者です。

敵対する平氏の一人とは言え、幼い安徳天皇を死に追いやったことに負い目を感じていたのでしょう。水に沈んだ時、安徳天皇の祟りを疑ったのも当然かもしれません。

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他にも「暗殺」説

吾妻鏡の記録は一点おかしな点があり、それは頼朝の死因に関する記述がみえるのが、頼朝死後13年の事であり、それまでは頼朝の死に関する記載が全く無いということです。

その理由として考えられるのは、頼朝の死因が編者にとって不都合であったからというものです。編者は前でも触れましたが鎌倉幕府の中心人物とされています。

もちろん頼朝の死が「落馬」なんて大変不名誉な死因の記載をためらったとも考えられますが、頼朝の後を継いで鎌倉幕府の実質的指導者となった北条氏にとって不都合だったからとも考えられます。そうする中で挙がってきたのが北条氏を首謀者とする頼朝暗殺説です。

私はこれも意外に根も葉もないとは言い切れないのではないかと思います。頼朝の後を継いだ2代将軍・頼家は北条氏により将軍の座を追われ、さらには暗殺されているのですから。

北条氏はその後鎌倉幕府を主導したことから武家としてのステータスも高く見られがちですが、決してそんなことはありません。頼家の母が北条政子であるとはいえ、北条氏はただの伊豆の地方武士、一方頼家は清和天皇の血を受け継ぐ由緒正しい家柄です。

それにも関わらず、先例を重視しなかったという理由だけで頼家を幽閉するのはやりすぎな感じが否めません。その上暗殺までしてしまうのですから、頼朝が北条氏の策謀により暗殺されたとしても不思議ではないのではないかと考えてしまいます。

案外『吾妻鏡』に記された頼朝の落馬でさえも北条氏の策謀かもしれません。もちろん真実は闇の中ですが、一つはっきりしているのは北条氏が頼家追放後、幕府の実権をにぎることになったということです。

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