松尾芭蕉は忍者だった? ウワサの出どころを徹底調査!

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” 五月雨を集めて早し最上川 ” ” 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡 ”

旅の情景の浮かぶような名句を、数々世に送り出した 俳聖 松尾芭蕉。

紀行文『奥の細道』で知られる松尾芭蕉は、実は忍者だったという説があるのをご存知ですか?

今回は、俳諧師松尾芭蕉の忍者説の秘密を追ってみたいと思います。

松尾芭蕉=忍者といわれる理由

松尾芭蕉が忍者ではなかったのかとの説が生まれたのは、

  1. 出身が、あの忍者の里として有名な「伊賀」である
  2. 移動距離&速度がスゴイ

という二つの理由からでした。

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伊賀にルーツが!

それでは先ず、松尾芭蕉の生い立ちについて、検証してみましょう。

松尾芭蕉が生まれたのは、伊賀の国(現在の三重県)、現在の寛永21年(1644年)のこと。

松尾与左衛門と梅の間の次男としてこの世に生を受けました。

身分は農民であったとされますが、当時は名字・帯刀が許されるのは、特定の身分のものだけでしたので、その地ではある程度の高い身分であったことがうかがえます。

そんな芭蕉の誕生地、「伊賀」は、かつて守護大名からの支配に対抗して自治を得るために、土地の伝統的な武芸であった忍術の修行を積んだ者達がいました。

ところが、織田信長の政権時代、二度もの伊賀討伐により滅ばされてしまいます。

その後、かの地を収めた戦国武将藤堂高虎は、伊賀討伐で全国に散った忍術者を集め多数家来に取り立て、苗字を与えたと言われています。

伊賀の地で苗字を持って生まれてきた、いうことが芭蕉=忍者では?の説を後押ししているようです。

移動距離・速度がスゴイ!

続いて、移動距離・速度がスゴイ!ということについて見ていきましょう。

元禄二年三月二十七日(1689年5月16日)、芭蕉は江戸から東北方面への旅へ出ます。江戸を出発した芭蕉は、東北、北陸、そして終点岐阜の大垣までを、俳句を作りながら旅しました。その行程2400kmを、150日かけて踏破したことになります。

単純に移動距離を日数で割ると、2400÷150=16、と1日16キロの移動となりますが、これは毎日コンスタントに移動した場合です。

しかし、何日間も同じ場所に留まったりすることもあり、その分1日の移動距離は伸びることになります。中には、1日に60キロも移動したとされる日があったりするのです。1日といっても、現代と違って夜間の移動は基本的にしない時代ですので、歩ける時間は限られていますし、ワラジばきで足場の悪い山道もあったでしょう。

平均寿命50歳ともいわれたこの時代。

剣術家などの普段から体を作りこんでいる人や、飛脚などの職業の人ならいざ知らず、46歳の俳諧師が旅をするには、いささか強行だった感じがします。

そこで再び芭蕉=忍者説が登場です。忍者って、サササッ!と移動するイメージですよね。たしかに、あんな感じであれば1日で60キロも移動できるかもしれません。

というよりも、忍術により体を鍛えていたからということなのでしょうか。

旅に出た理由は幕府公認の密偵?

芭蕉には、もう一つ『密偵』だったという噂があります。

そちらのウワサの根拠とされるのは、どういったことからでしょうか。見てみましょう。

芭蕉は、地元伊賀で仕えていた藤堂主計良忠が亡くなると奉公をやめ、江戸に出ます。やがて、江戸内でも栄えていた日本橋にて俳句を教える職業俳諧師となりますが、その後深川に隠遁してしまいます。

引っ越しした原因は分かっていませんが、華やかな俳壇から離れ、静寂で孤独な環境に身を置くことで、芭蕉の求める「俳句の純粋性」を追求したくなったのだと言われています。

もちろん、そうなれば金銭面では苦しくなります。しかし、芭蕉はそれからも多くの旅をし、俳句をのこしているのです。

当時の旅はお金のかかるものでした。また、旅の途中いたるところに幕府により設置された関所を通るのには「手形」がいりました。手形は手に入れるのも大変で、当時の人々はなかなか旅というものはできないものでしたが、芭蕉の場合はそうでもなかったようなのです。

資金源、通行手形の問題も、幕府が後ろにいるのであれば解決

また、奥の細道の旅の行程に、不自然な面が多いことがあげられます。

旅に出る前は「松島の月 心にかかりて」(松島は月がキレイだろうな、楽しみだな、と心が騒ぐ)なんて言っていた割に、奥の細道の行程には、松島は含まれていないのも不可思議です。

その代わり、石巻では執拗に辺りを何やら調査している模様・・・これは実は、仙台藩伊達家についての密偵調査だったのではないかと言われているのです。

立ち寄った港やお寺などは、伊達藩の軍の要所になっていたところもありました。

当時仙台藩伊達家には、幕府より日光東照宮の修繕を命が下っていました。しかし、修繕は莫大な資金がかかり工事も遅れていたため、謀反や反逆の動きはないか調査しようと、芭蕉が密偵として訪れたという説があります。

仙台藩領内での、不自然な動き

他にも、「実は、同行の弟子 河合曾良 こそが幕府の密偵だったのだ」というウワサや、「山形県庄内での紅花産業を狙った産業スパイだったのではないか」というウワサ、「俳句に隠された暗号を読み解く!」といった研究をされている人もいます。

閑さや 岩に染み入る 蝉の声

どこか純粋そうな、自然美を織り込む俳句を作った松尾芭蕉。

杖を突いた旅装束の、小さな帽子を頭にちょこんと乗せた松尾芭蕉の姿が、まさしく「俳句の人」のイメージとなっている人も多いかと思われます。

果たして、『 俳諧師 松尾芭蕉 』 の正体やいかに。

忍者か、幕府のスパイか、それともただの人か。今後の研究が待たれます。

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北村美佳子

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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