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松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物!?

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忍者として今も有名な服部半蔵。ゲームや漫画作品にも登場しますね。

また、俳句で有名な松尾芭蕉。CMでも俳句が使用されたことがあります。

そんな彼らですが、同一人物だったという説があります。そうなのでしょうか?

1つずつ検証していってみましょう。

松尾芭蕉

まずは松尾芭蕉について、簡単にまとめてみました。

彼は1644年から1694年にかけて生きました。50歳没という計算になりますが、昔は「人生50年」という人生観でしたので、特に短命というわけでもないようです。

先述した「CMで使用された俳句」とは”閑さや 岩にしみいる 蝉の声”という、山形県の立石寺で詠まれた句です。芭蕉と言えば『奥の細道』という紀行文が有名ですね。弟子の河合曽良を連れて、1689年5月16日に江戸を旅立ち、東北~北陸~岐阜県へと巡ります。旅に出たのが芭蕉45歳の時という計算ですから、なかなかすごいです。

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服部半蔵

では次に、忍者として有名な服部半蔵です。ですが残念ながら、服部半蔵というのは特定の人の名前ではありません。代々「半蔵」を名乗る家系なんですね。

初代の服部半蔵は忍者でしたが、詳しくは不明です。忍者が詳細を知られては駄目ですが。

現在キャラクターとして有名なのは、2代目の服部半蔵正成です。彼は伊賀同心支配役で、自分は甲冑をまとって足軽を率いていた武士であり、忍者ではありません。

初代服部半蔵はよく分からないのですが、服部家は代々武士のようです。忍者は土地を守るために地侍が活躍したのが発端ですし、服部家=武士であるというのは納得のいく話です。

同一人物説

さて、では何故この2人が同一人物とされるのでしょう?

服部半蔵に関しては家系ですので、1”人”とカウントして良いのか疑問ですが。

芭蕉に関しては「芭蕉は忍者で、旅は情報収集だったのではないか」という説があります。なにも服部半蔵に限定されている訳ではないのですが、何故彼は忍者だと言われるのか。

それは、彼が三重県伊賀市の出身だからです。伊賀出身だからと言うだけで忍者と噂されているようなものですね。

加えて服部半蔵家ですが、こちらも伊賀の武士です。忍者と言えば伊賀と甲賀が有名ですよね。初代が伊賀の忍者であったため、服部半蔵=伊賀忍者というイメージが定着してしまったのでしょう。

類似点

出身が同じだから同一人物とされた、としか言えないのですが。初代の服部半蔵は恐らく地元(伊賀)を守るために忍者となったでしょうから、そうそう地元を離れて活躍することはなかったと推察されます。

比べて芭蕉は「旅に出る」ことが忍者説の根拠となっている部分がありますので、初代服部半蔵のイメージとは異なります。

忍者=各地へ情報収集に動き回るというイメージもなくはないのですが、服部半蔵家に関しては違うと言えます。

ことの真相は

ただの風聞でしょう。まず「服部半蔵」が特定出来ないことが根拠となります。忍者とされる初代服部半蔵は戦国時代の人です。

現在有名な2代目服部半蔵は1542年ー1596年の生没ですので、芭蕉とは生きた時代が100年ほど異なります。

芭蕉の生きた時代と重なる服部半蔵を探してみましたが、4代目服部半蔵正重が当てはまります(1580年ー1652年)が、4代目はすでに伊賀同心支配の任を解かれ、別の財政管理などをしていたので、忍者とは言い難い状況です。

まとめ

同一人物説は、出身地が同じだということで出てきた説でしょう。忍者というのは神秘的で謎ですから、想像しやすいのでしょうね。

あまり謎が多いととんでもない説が出来あがってしまいますが、それを検証して行くのも楽しいですね。

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