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前田利家と妻まつ 戦国時代のおしどり夫婦の出会い

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戦国時代のおしどり夫婦、利家とまつ。

後の加賀百万石を作り上げたこの夫婦は一体どのように出会い、結ばれたのでしょうか。

まつの人生と共にその夫婦の絆を紹介したいと思います。

4歳で出会い、12歳で結婚

前田利家の正室まつは天文16年(1547年)現在の尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で生まれました。

しかし、物心が付くか付かないかのうちに父が亡くなり、母が再婚すると母の妹が嫁いだ尾張荒子城主:前田利昌に預けられます。

その前田利昌とまつの叔母の息子……つまり、まつにとっては従兄にあたるのが後の夫の前田利家でした。この時まつは4歳。

二人はまつがまだ幼い子供のうちから一緒に暮らしていた事になります。そして、永禄元年(1558年)まつは数え12歳で前田利家に嫁ぎます。

嫁ぐと言ってももう何年も同じ家で育っているのだからなんだか不思議な感じがしますね。ちなみにこの時利家は21歳。政略結婚が殆どの中、当時としては珍しい恋愛結婚でした。

まだあどけない年頃のまつですが、美しく聡明な少女だったそうです。利家も長身で細身の美男子であったと伝わっていますから、正に美男美女、似合いの夫婦です。

翌年には二人の間に長女の幸姫が生まれます。しかし、利家は一本気ではあるけれど喧嘩好きのかぶき者。主君の織田信長とつるんで周囲を悩ます荒くれ者だったと言います。ついにはその喧嘩っ速さから信長の茶坊主を斬り殺してしまい、職を失ってしまいます。

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困難もあったけれど夫婦の愛情は深かった

まつの新婚生活は子供を授かっためでたさから一転、苦難の始まりになってしまいましたが、二人の夫婦仲の良さは後の創作と言う訳でもなさそうです。

そもそも利家が信長の茶坊主を殺してしまったのも利家がまつから貰った笄を盗まれた挙げ句侮辱されたからだと言います。可愛い妻の悪口は許せん!と言ったところでしょうか。

さすがに殺してしまうのはやりすぎだとは思いますが、利家の愛妻家の側面を見る事が出来るエピソードだと思います。

また、まつには蓄財に励む利家に「金銀を召抱えて槍を突かせたら?」と皮肉を言った逸話もあります。二人が対等かそれに近い関係の夫婦でないとこんな皮肉は言えなかったでしょう。

そんな二人の仲を証明するのはなんと言ってももうけた子供の数。利家とまつの間の実子は11人、これは伊達政宗の祖父である伊達晴宗の正室久保姫と並んで最も多い数と言われています。

前田家を支え続けたまつ

まつは政治においても重要な役割を果たしています。天正13年(1585年)の秀吉の北陸遠征にあたり、利家は丈の長い煌びやかな陣羽織で秀吉を出迎えています。

これはまつの手による物で派手好きな秀吉を大いに喜ばせ、またかつてかぶき者と呼ばれた利家の気概が衰えていない事を存分にアピールしました。

豊臣家と前田家の関わりはそれだけではありません。まつは子供のいない秀吉夫妻の為にと4女である豪姫を秀吉の妻ねねの養女に出しています。

実はこの事も後に利家が秀吉に重んじられるきっかけとなっています。そして利家の死後、出家として芳春院となった彼女は悪化していく徳川家と豊臣家の関係の中、前田家の為に奔走しています。

その為に彼女は自ら江戸に人質として下ってすらいます。利家の存命中は夫婦二人三脚で、彼の死後は一人で、まつは前田家を支え続けたのです。

まとめ

前田家を生涯支え続けたまつ。彼女は幼い時からの人生の殆どを夫であり従兄である利家と過ごしていました。

利家にとってまつは誰よりも自分を知っており受け入れてくれる存在であったのではないでしょうか。そして、まつもまたどんな事があっても利家を支え続けました。

二人の間にあったのは深い愛情としか言い様がありません。

Mana

投稿者プロフィール

歴史が好き!!の勢いで突っ走る歴史オタクのライターです。
その時代に生きた人々の文化や偉人達の人間味あふれるエピソードに興味津々。鎌倉や京都、全国の史跡を訪ねつつ温泉や美味しい物を楽しむのが何よりの幸せです。
歴史のオモシロ話を読みやすい文章でお届けできるように頑張ります。

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