本多忠勝の晩年と最期 死因は糖尿病!?

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徳川家康に仕え、数々の戦いで猛将ぶりを発揮した本多忠勝ですが、江戸幕府ができて戦が無くなってからは、どのように過ごしていたのでしょうか。

すでに晩年に差し掛かっていたと思われますが、彼の余生はどうだったのかを見ていきましょう。

関ヶ原の戦い以降の忠勝の晩年の様子

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いでは、忠勝は家康の本隊と共に行動していました。

本多の本隊は、長男:忠政(ただまさ)の下にあり、徳川秀忠と一緒でした。忠勝の役目は、井伊直政と共に、豊臣恩顧の武将の動向を観察する軍監(目付)だったのです。そのため、手勢は少なかったようです。

とはいえ、前哨戦である竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)と岐阜城の戦いに参加しており、織田信長の孫:織田秀信(おだひでのぶ)とその配下である杉浦重勝と交戦し、勝利に貢献しています。

その後は井伊直政と吉川広家(きっかわひろいえ)の内通工作に関わりました。吉川広家は毛利の重臣であり、毛利家の所領安堵を保障するかわりに戦に参戦しないようにしたのです。吉川軍が動かなかったことは、関ヶ原本戦の勝利の大きな要因となりました。

また、忠勝はわずかな手勢と共に島津隊とも戦っています。この時の島津義弘(しまづよしひろ)が用いた壮絶な突破劇は東軍に被害をもたらしますが、忠勝は多くの首級を挙げました。

関ヶ原以降

関ヶ原前哨戦・本戦・その他内通工作などの功績によって、忠勝は伊勢桑名(いせくわな:三重県桑名市)藩に10万石を与えられました。旧領だった上総大多喜(かずさおおたき:千葉県夷隅郡大多喜町)藩5万石は、二男の忠朝(ただとも)に与えられています。

家康は忠勝に上総大多喜の地も与えようとしたのですが、忠勝が固辞したために忠朝に与えられたとも言われています。

伊勢桑名に移った忠勝は、城郭や宿場の整備など内政に力を入れ、名君と呼ばれるようになりました。

しかし、1604年頃から彼は病を得ていたようです。そのため家康には隠居を願い出ましたが慰留され、1609年になりようやく家督を長男:忠政に譲り、隠居しました。この2年前には眼病も患っていました。

そして、隠居してわずか1年後の1610年に亡くなります。享年63歳でした。家臣の中根忠実(なかねただざね)と梶勝忠(かじかつただ)が殉死しました。両者とも長く忠勝に仕えていましたが、中根忠実は本名は織田信照(おだのぶてる)と言い、信長の弟だったとも言われています(諸説あり)。梶勝忠の梶家は、代々本多家の家老を務めていました。

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冷遇説

伊勢桑名藩の所領10万石は少なく、冷遇されたのではないかという説があります。

しかし、同じく元勲の井伊直政治は近江佐和山(滋賀県彦根市)の18万石、榊原康政(さかきばらやすまさ)は上野館林(こうずけたてばやし)の10万石でした。彼らと比べれば、特に冷遇されたという感じはないように感じられます。

また、伊勢桑名は西方にあり、豊臣方だった外様大名たちを監視することもできたと思います。それは井伊直政の近江佐和山も同じだと考えられますので、重要な場所を任されたという解釈もできるのではないでしょうか。

一方、同じく家康の側近である本多正信(ほんだまさのぶ)・正純(まさずみ)親子が重用され、忠勝が幕政に関与しなかったことは、中心から遠ざけられた証拠とも言われます。

ただ、正信らは昔から参謀役であり、行政能力が高い文官タイプでした。戦乱の世から太平を目指す世へと時代の転換を迎えれば、必要とされる能力は変わってくると思います。戦いで道を切り開いた忠勝は、戦国の世では最も必要とされていたのは事実です。そうしたことを、忠勝が理解できない人物だったとは考えにくいと思うのです。昔のように戦場で活躍できないことを残念には思っても、時代の流れをわかっていたと思います。

忠勝の最期

彼の最期についての逸話があります。

隠居生活を送っていたある日、忠勝は小刀で持ち物に名前を彫っていました(木彫りが趣味だったいう話もあります)。そこで手元が狂い、手を切ってしまいます。すると忠勝は「傷を負っては本多忠勝も終わりだな」と呟き、その数日後に亡くなってしまったというものです。

生涯で参戦した57回の戦において、かすり傷さえ負わなかったという武勇が伝えられていた忠勝です。そんな彼が手元を狂わせて自分を傷つけるということは、これまでなら有り得ないことでしたし、彼の力が衰えたということの暗示として伝えられているのだと思います。

自らの死に際して、忠勝は遺書と辞世の句を残しています。

侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という

これが遺書の一部です。戦場で猛将として名高く、家康に忠誠を尽くした彼らしい言葉ですね。

また、辞世の句はこうです。

死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば

死にともなとは「死にたくない」という意味で、深い恩のある主君(家康)を思うからこそまだ死にたくないという、ひたすら忠義に生きた忠勝の思いがうかがえます。

前の話題に戻りますが、もし不遇であったなら、ここまでの思いを辞世の句に吐露することはできるでしょうか?

忠勝は最後まで家康に忠誠を尽くしていたのだと思います。

死因

隠居を何度も願い出るほどだった忠勝が何の病だったかは不明ですが、それなりの病気だったと考えられます。

眼病を患っていたそうなので、深く勘繰ると糖尿病から来る糖尿病網膜症があって、糖尿病が死因につながったのかなとも思います。

また、上記の小刀の逸話が本当だったとして、現実的な話をすれば、傷口から何かの感染症にかかったとも考えられますね。

元々病があれば、抵抗力も多少は落ちているでしょうし、感染しやすいと思われます。破傷風であるなら潜伏期間は3~21日間くらいと言われているので、もしかすると…ということもあるかもしれません。

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まとめ

晩年が不遇であったという説とそうではないという説が多く飛び交っていますが、不遇ではなかったと私は思いました。

時代の流れで求められる人材が変わるのは仕方がないことですし、忠勝にはそれを受け入れる度量があったと思うのです。

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xiao

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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