徳川四天王本多忠勝の子孫 江戸時代は不遇な時を過ごしていた!?

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徳川四天王のひとりにして猛将の誉れ高い本多忠勝。徳川家康の譜代の家臣でありながら、織田信長や豊臣秀吉もその武勇を称えました。

秀吉は忠勝のことを「東に本多忠勝、西の立花宗茂(たちなばむねしげ)」と、西国の勇将・立花宗茂と並べて評価しました。

それでは、忠勝の子孫はどのように続いていったのでしょうか。

今はどうしているのかも含めて、見ていきたいと思います。

忠勝の子孫は今も続いている!?

ずばり、現在も本多忠勝の子孫は続いています。

現当主は本多隆将(たかまさ)氏で、忠勝の鎧を所有しています。

また、当主ではありませんが、宗家の血筋に当たる本多忠次(ただつぐ:1896-1999)の邸宅の一部が愛知県岡崎市に移築され、旧本多忠次邸として公開されています。昭和の洋館は彼自身が設計を手掛け、当時の調度品やステンドグラスなどが飾られています。

ただ、現在に至るまで本多氏は波乱万丈でした。当主夭逝のため後継ぎがおらずお家断絶の危機に瀕したり、そこを脱しても減封や相次ぐ移封などで財力が衰えたり、後の当主たちも若死にだったりと、常に何かの危機に襲われていました。

しかし、そこを乗り越えて今に至っています。

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江戸時代 忠勝の子孫の藩

実は、忠勝以降の本多氏は非常にめまぐるしく藩が変わっています。

伊勢桑名藩(いせくわな:三重県桑名市)

忠勝は関ヶ原の戦いの功績により、伊勢桑名に領地を得ました。

それを息子の忠政(ただまさ)が継承します。後に忠政は播磨姫路に国替えとなりました。

播磨姫路藩(はりまひめじ:兵庫県姫路市)

忠政の長男:忠刻(ただとき)は家康の孫娘・千姫と結婚していましたが早逝したため、二男の政朝(まさとも)が跡を継ぎました。

しかし、彼が亡くなったときには子が幼く、本多家の掟として幼少の当主は禁じられていたため、政朝の従弟:政勝(まさかつ)が家督を相続します。

大和郡山藩(やまとこおりやま:奈良県大和郡山市)

政勝が当主となると、大和郡山に移封となります。本来なら政勝は亡くなった政朝の息子が成長したら家督を譲らなければなりませんでしたが、だんだんと自分の子に譲りたいと思うようになりました。そのため、継承する石高を巡ってお家騒動が起こってしまいました。結局、政朝の息子である政長(まさなが)が跡を継ぎます。

政長は亡くなったとき、お家騒動の一環で毒殺されたとも言われました。彼は本多氏の血を引く松平忠国(まつだいらただくに)を養子に迎えており、彼が相続しました。忠国は陸奥守山(福島県郡山市)藩主:松平頼元(よりもと)の二男です。

陸奥福島藩(むつふくしま:福島県福島市)

忠国が家督を継ぐと、すぐに陸奥福島へ転封となりました。その後彼の時代に播磨姫路へ再転封されます。

播磨姫路藩(2回目)

忠国は藩主在任中に亡くなり、息子の忠孝(ただたか)が幼年ながら跡を継ぎました。

しかし、姫路城は西国を睨む重要拠点だったため、幼少の藩主には無理だろうという理由で転封が決まります。

越後村上藩(えちごむらかみ:新潟県村上市)

越後村上に転封されたとはいうものの、忠孝は入城することなくわずか12歳で死去してしまいました。当然跡継ぎはおらず、ここで本多氏は最大の危機を迎えました。これではお家断絶となってしまいます。

しかし、徳川四天王にまで選ばれし本多忠勝の家柄であるということで、分家筋が後を取ることを許されました。とはいえ、15万石だった所領は5万石へ減封するペナルティを負ったのです。加えて転封となりました。

三河刈谷藩(みかわかりや:愛知県刈谷市)

夭逝した忠孝の跡を継いだ忠良(ただなが)は、将軍の側近となり、後に老中となります。その後またも転封が待ち受けていました。

下総古河藩(しもうさこが:茨城県古河市)

忠良は下総古河藩主の在任中に死去し、息子:忠敞(ただひさ)が跡を継ぎました。その9年後にまた転封されるのです。

石見浜田藩(いわみはまだ:鳥取県浜田市)

石見浜田に転封された直後、忠敞はわずか33歳で亡くなってしまいます。養子の忠盈(ただみつ)が後継者ですが、彼は信濃松代(しなのまつしろ)藩主:真田信弘(さなだのぶひろ)の六男でした。系譜をさかのぼりますが、信濃松代藩の初代・真田信之の妻が忠勝の娘だったため、忠盈は本多氏の血を引くことになるのです。

三河岡崎藩(みかわおかざき:愛知県岡崎市)

忠盈の跡は、早逝した忠敞の実子:忠粛(ただとし)が継ぎました。この時に三河岡崎に封ぜられ、ようやくここで本多氏の長い転封の歴史が終わります。

その後

ただ、この後の本多氏をさらなる難局が待ち受けていました。相次ぐ移封によって財政は逼迫し、それに加えてこの後の藩主は早逝が多く、また、行動に問題のある人物もいました。このことでまたも家督争いが起こってしまったのです。

なんとか持ち直したころには明治維新の足音が迫っていました。

忠勝の子孫で有名な人物

徳川四天王のひとり井伊直政(いいなおまさ)の子孫には、後に桜田門外の変で暗殺された、幕府の大老:井伊直弼(なおすけ)がいます。

忠勝の子孫には井伊直弼ほどの有名人ではありませんが、何人か挙げてみます。

本多忠良(1690ー1751)8代

前述の越後村上藩~三河刈谷藩の時代、幼少の当主:忠孝が亡くなり、分家筋の忠良が迎えられました。この時に減封されたことも前述の通りです。

彼は6代将軍:家宣(いえのぶ)に仕え、将軍の側近である側用人(そばようにん)となります。その後侍従となり、老中格となりました。8代将軍:吉宗(よしむね)にも仕え、再度老中となり国政を担いました。

しかし、本来の本多氏の格式ならば、老中になったりはしないのです。

江戸幕府は軍事政権の側面が強かったため、徳川四天王のような格の高い譜代大名は文官や官僚のような役職に就かないのが慣例でした。老中なんて役職は、聞くととても位が高そうですが、譜代大名からすれば話にならない役だったのですね。

四天王は兵力をもって地方を抑えることが求められたのです。雑務は文官という気風がありました。

それを本多氏が担ったというのは、やはり後継者がなく分家筋を迎えたために家の格が落ちたということを意味していたのです。

本多忠民(ただもと:1817-1883)15代

忠民は讃岐高松(さぬきたかまつ:香川県高松市)藩:松平頼儀(まつだいらよりのり)の四男でしたが、本多宗家の忠考(ただなか)が病弱で隠居したため、養子に迎えられました。

1857年に幕府の京都・朝廷担当である京都所司代になり、日米修好通商条約締結に関して朝廷と幕府の間を行き来し、活躍しました。

息子:本多忠政(ただまさ)

忠勝の息子・忠政は、15歳の時に北条氏相手の小田原征伐で初陣しました。忠勝と浅野長政(あさのながまさ)に従って武蔵岩槻城(むさしいわつきじょう:埼玉県岩槻市)を攻め武功を挙げます。

1600年、関ヶ原の戦いの際は、まず徳川秀忠に従って中山道を進み、信濃国の上田城(長野県上田市)に陣取る真田昌幸(さなだまさゆき)・信繁(のぶしげ)と戦います。しかし真田方の作戦に翻弄され敗戦を喫し、関ヶ原の本戦に遅刻してしまいました。

1609年に父が隠居すると忠政が家督を継ぎ、大坂の陣に参戦します。冬の陣では徳川方の先鋒を務め、大坂城の濠の埋め立ても行いました。夏の陣では京都御所の警備を務めるなどしています。

戦後は西国に睨みをきかせるため、姫路城主となりました。

忠勝に比べると武功は小さかったと思われますが、生まれたのが戦国末期であったことを考えると、父に比べれば参戦回数も少なかったことでしょう。また、前線での戦いよりも後方支援で力を発揮したタイプの人のように思えます。実務やサポートに適した人物だったのではないかと考えられます。

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まとめ

実は本多氏については、忠勝の方を宗家とするか、同じく家康に仕え参謀を務めた本多正信(まさのぶ)の方を宗家とするか論争になることもあるようです。

だいたいの場合は忠勝を宗家と見るようですが、難しいところですね。

それにしても、転封が多すぎですね。忠勝の子孫たちは本当に苦労したことでしょう。

幕府の創設の大功労者なのにこの扱いとは、ちょっと理不尽だし可哀想に思えてしまいます。

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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