平賀源内の死因とは?

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本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家…。

多くの肩書をもち「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも呼ばれる平賀源内ですが、そんな彼は獄中で亡くなったことをご存知でしょうか。

なぜ源内は投獄されてしまったのでしょうか。今回は彼の最期について迫りたいと思います。

投獄された理由

源内が投獄されたのは、彼が殺人を犯したからです。

ある大名が別荘の修理を建築業者(米屋という説もあり)秋田屋久左衛門の子・久五郎と松本十郎兵衛家中の丈右衛門の二人に依頼した際、源内はその二人よりもはるかに安い値段で修理ができると言い出し、喧嘩になりました。

そのため大名は、町人と源内に共同で修理させることにします。そんな二人が仲直りのため源内の家で酒宴を催した時のこと。

源内が自分の考えた修理計画書を二人に見せると、二人も源内の計画に納得し、三人はそのまま酔って寝てしまいました。ふと、源内が目を覚ますとその計画書がありません。

源内は二人が盗んだと思いこみ、そのまま斬りつけてしまいました。この時、久五郎は頭部を斬られて数日後に死亡、丈右衛門は親指を斬られたといいます。

しかし、実際は計画書は源内の帯の間にちゃんとあったとか。彼の殺人は早とちりによる誤解だったのです。

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源内を人間不信にしたエレキテルの悲劇

源内最大の発明品は静電気発生装置「エレキテル」でしょう。厳密には源内は「発明した」のではなく「復元に成功した」というのが正しい表現です。

エレキテルはもともとオランダで発明されたもので、源内はこれを長崎滞在中に入手し、1776年模造製作に成功しています。

源内はその原理を理解しないまま修理に成功したともいわれており、源内の天才ぶりがわかります。

最初こそ目新しさに大盛り上がりとなりましたが、エレキテルに見飽きた人々は源内をペテン師扱いし、冷ややかな眼差しを向けていたようです。

彼は『放屁論』で「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っています。

その上、源内は使用人にエレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされてしまいます。

誰も自分を分かってくれない、誰も信用できない。今なお彼の名を世に知らしめているエレキテルは彼を人間不信にし、殺人という悲しい結果を招いてしまったのです。

獄中での最期

1779年11月21日、源内は小伝馬の牢獄に投獄され、12月18日獄中で死亡しました。

死因は衛生状態の悪い獄中で破傷風になったことによるされており、また一説には投獄されたことを恥じた源内が食事をとらなかったことによる衰弱死ともいわれています。

彼の葬儀は親友で『解体新書』の翻訳者として知られる蘭学者・杉田玄白が執り行いました。浅草総泉寺に玄白の尽力で墓碑が建てられ、墓石には玄白の「嗟 非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」の文字が刻まれました。

こうした一方で、後年逃げ延びて田沼意次の保護下で天寿を全うしたという説があります。こうした異説が出るのは、源内の遺体が幕府の許可がおりず、親友であった杉田玄白が喪主となって執り行った葬儀でも遺体がなかったことが原因です。

また静岡県相良町には、源内が田沼意次の計らいにより匿われて遠州相良へやってきたという言い伝えがあり、町内の浄心寺には彼の墓といわれているものもあるそうです。

「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれた平賀源内ですが、その最期は人々に認められ多くの人々に看取られたダ・ヴィンチとは異なり、大変寂しいものでした。

もし、彼がルネサンスの隆盛するヨーロッパにうまれていたら、もしくは生きて開国を迎えていたらもっと違う人生があったのかもしれません。

極度の制限貿易により技術発展を拒んだ江戸時代の日本には、源内の才能を受け入れるだけの環境が整っていなかったのです。

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