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応仁の乱の勝者はどっち?

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室町幕府8代将軍・足利義政の将軍継嗣問題をきっかけとして、幕府の有力大名である細川勝元と山名宗前の対立、さらには管領・畠山氏の内紛が合わさることで起こった応仁の乱。

東軍と西軍に分かれて戦った応仁の乱の勝者はどちらだったのでしょうか。

応仁の乱の原因

きっかけは8代将軍・義政の後継ぎをめぐる問題でした。義政は正妻・富子に男児が生まれないことをみると、弟・義視を還俗させ後継ぎとしました。しかし、その1年後、富子に男児・義尚が生まれてしまいます。

富子は義視の後見人・細川勝元に対抗するべく、勝元と対立しており互角の力をもつ山名宗全を頼ります。

そこに当時の幕府において将軍に次ぐ地位にあった管領の畠山氏で起こっていた家督争いが加わり、東・義視‐勝元軍、西・義尚‐宗全軍に分かれて対立することとなったのです。

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応仁の乱での戦闘

応仁の乱といっても、実際に合戦らしい合戦は相国寺の合戦と船岡山をめぐる攻防戦ぐらいで、そのほとんどが混乱と呼ぶにふさわしいものでした。

味方が味方の陣に突入したり、味方を敵と間違え討ちとってみたり。こうした混乱に乗じて盗賊が火を放ち、略奪を行ったため、京の町は荒廃していきました。

戦線が膠着状態に入ると、兵士たちは戦闘の合間に酒盛りをしたり、賭け事に興じたりしていたのです。

勝者は東軍?

応仁の乱の勝者は名目上東軍ということになっています。しかしあくまでも”名目上”という条件付きです。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか。

その大きな原因は、乱の当事者たちが東軍・西軍の意識がなかったためと考えられます。つまり、富子・義尚:義視、山名宗全:細川勝元という対立構図はあったものの、富子・義尚にとって細川勝元は敵ではなく、義視にとっても山名宗全は敵ではないと考えていたようなのです。

その現れとして、富子は勝元が将軍保護のため自分たちの住む花の御所に陣を敷いたときに少しも意義を唱えていません。

さらに富子は義視を花の御所で同居させています。敵同士である二人が一つ屋根の下にいたという摩訶不思議な状態が生まれていました。

その後も、富子は東軍・西軍関わらず戦費を貸し与えたり、義視が敵将であるはずの山名宗全のもとに逃げ込んだりと、東西両軍が入り乱れる状況でした。

こうした中で追討の勅命が下った義視を西軍の山名宗全が受け入れたことにより、宗全の西軍が賊軍、勝元の東軍が官軍となり、東軍の”名目上”勝利となったのです。

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