日本三大悪女!日野富子とは?

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中国には中国三大悪女と呼ばれる女性が3人います。一人目は殷を滅亡に導いた妲己、二人目は中国史上唯一の女帝・則天武后、三人目は妃でありながら強大な権力を握った清朝の西太后です。

そして日本にも三大悪女といわれている3人がいます。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の妻・北条政子、豊臣秀吉の子を産んだ淀殿こと浅井茶々、そして日野富子という人物です。

日野富子とはどのような人物だったのでしょうか。

将軍・足利義政との結婚

富子は1440年、日野家に生まれました。

日野家は古くは藤原道長を輩出した藤原北家に属し、公家の中でもトップクラスの名門で、3代将軍・足利義満が正妻となった日野業子を寵愛して以降、5人の女子が将軍家に輿入れしています。

富子も将軍・足利義政の生母で大叔母・日野重子のコネで、16歳にして義政の正室となります。

ここから彼女の悪女伝説が始まるのです。

富子の悪女伝説

1.わが子の死もライバル排斥のために利用

富子が義政に嫁いだころ、義政は10歳も年上の今参局という女に入れ込んでいました。今参局はもともと義政の乳母だった人物で、オムツのころから義政の養育にかかわり、成長してからは性交渉の手ほどきもしたといわれています。

義政は生母である重子以上に今参局に懐き、「天下の万事はみなこの身の上(今参局)」といわれるほどの絶大な権力を握っていました。二人の間に一つだけ問題があるとすれば、今参局が女児しか生んでいなかった点でしょう。

そんな中、1459年富子と義政との間に待望の男児が生まれます。しかし、半日もしないうちに夭折してしまいました。

富子と大叔母・重子はこれを今参局の排斥に利用することを考え出します。愛宕山の巫女に命じて、息子の呪詛を今参局に頼まれたと訴えさせたのです。

男児の誕生で「かわいい私の」義政を奪われるところだった今参局は、男児の早世を心の中では大変喜んでいましたから、これは真実とされ今参局は琵琶湖沖島に流罪、さらに義政の側室4人も追放されてしまいました。

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2.応仁の乱に乗じて大儲け

1465年、富子は再び男児を出産します。それまでに女児を2人生んでいましたが、将軍職を継ぐことになる待望の男児に富子は大変喜び、溺愛します。

しかし、タイミングの悪いことに義政の後継ぎとして義政の実弟・義視が決まってしまった後でした。義政は富子になかなか男児ができなかったことから、仏門に入っていた弟を還俗させて後継ぎとしたのです。

ところが富子は愛息子・義尚を将軍につけようと画策。室町幕府の有力大名・山名宗全や日野家を味方につけて義視と対立し、応仁の乱を引き起こしてしまいます。

ここまでは親心として理解できなくもないですが、富子の悪女っぷりはここから。

富子は義尚を擁する東軍にいましたが、乱の間東西両軍の大名に多額の貸し付けを行ったのです。富子は応仁の乱を利用して巨額の財産を生みだします。

その額、現在の価値にして60億。

この様子をある僧は「天下は富子の思うがまま、巨万の富があの女のもとに集まっている。(応仁の乱の)戦費に困っている大名は、仕方なしに高い金利を払って富子から金を借りている。天下の金はすべて富子のもとに集まっているのではないか。」と記しています。

乱を招いた張本人でありながら、金をばらまき戦いを助長させ、自らの懐を温めていたのです。

3.関銭を着服

1480年、富子は京都の七つの出入り口に関所をもうけ、関銭を徴収し始めました。当時、関所をもうけることも関銭をとることも普通に行われていたことですのでそこまでは別に悪女でも何でもありません。

しかし、富子は本来御所の修復費と京の神社の祭礼費用に充てられるべき関銭を着服していたのです。そもそも1479年までに御所は完成していたと見られているので、口実自体おかしいのですが。

ある公家の日記に「まるでこの国のことは富子が決めているようなものだ。神社の祭礼は行えなくなったし、宮中行事も予算がないのでできない。まったく言語道断のことだ」と記しています。

民衆にとって神社の祭礼というのはつまりお祭りのことで、唯一の楽しみといっていいものでした。それが富子のせいで行うことができなくなったのです。当然民衆は怒り、一揆を起こしました。

ところが富子は、自らの財産を守るためにこれを弾圧。さらに一揆の要求が通り関所が廃止されると、すぐにこれを再建しようとして反感を買っています。

富子はただの「守銭奴」じゃない!?

以上、富子の「悪女っぷり」を挙げたわけですが、近年では彼女の「経済活動」に対する評価も見直され始めています。

そもそも貨幣経済が発達し、それまでの米による収入ではなく貨幣による収入に頼っていた室町幕府において、蓄財を行っていたのは富子だけではありませんでした。

富子の夫・義政も金を頼りとし、胴巻とよばれる帯状の袋にお金を貯めこんでいたことが伝えられていますし、幕府の中枢にいた伊勢貞宗という人物も、高利貸しを行い、義政同様胴巻にお金を貯めこんでいたそうです。

ただ、富子の息子・義尚だけはこうした流れに乗れなかったようで、土倉とよばれる当時の高利貸しに借金しており、徳政令が出された際には質入れしていた刀を取り返していたりします。

もちろんこうした中で富子の蓄財はずば抜けたものでした。

富子は1477年に畠山義就に対して一千貫(現在の価値で約1億円)もの銭を貸し付けています。

個人対個人の借金にしては大変な額ですが、これは和平工作のための裏金であったと考えられており、これにも和平を金で買ったと批判があるそうです。

また、富子は自らの財を投じて応仁の乱によって中断していた朝廷の儀式や寺社の祭礼を復活させたり、天皇や女房たちに銭や酒肴を頻繁に贈っています。

応仁の乱以後、幕府の財政も困窮しており、富子の「富」頼みだったという現実を考えれば、一概に富子の蓄財を責めることもできないのではないでしょうか。

こうした富子の功績がほとんど語られてこず、「悪女」として「守銭奴」として知られることとなった背景には当時の女性蔑視があるのではないかという指摘もあるようです。

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