函館で撮影されたという土方歳三の写真は本物なのか?

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近年、沖田総司の写真と呼ばれるものが何枚か出回り、そのたびにイメージと違うという騒動を繰り返しています。
実際には、沖田総司かと言われている写真の中で本物と断定できるものは一枚もなく、逆に沖田総司ではないことが証明されているものばかりなのです。

そうなると、鬼瓦のような顔でイメージぴったりの近藤勇の肖像写真はともかく、土方歳三が箱館戦争の折りに撮影したといわれる、鬼の副長のイメージとはかけ離れた洋装の写真は果たして本物なのかという疑問が浮かんできます。

土方歳三の美男ぶりを決定づけているあの写真は、いつどこで誰によって撮られたのでしょう。

土方歳三の写真の由来

現在、土方歳三の写真とされているものは、上半身を写したものと全身を写したものの2種類があります。 どちらも同じ服装でポーズも似ているところから、同じ日に撮影されたのだろうと考えられています。

上半身を写した写真の出自は確実なもので、箱館戦争終結直前に土方の小姓であった市村鉄之助が藤方に命じられて土方の義兄にあたる佐藤彦五郎の元に届けたという記録があります。

この時、写真とともに「使の者の身の上頼上候 義豊」という直筆の手紙も添えられていました。義豊は土方歳三の諱です。

土方をよく知る佐藤彦五郎が本人の写真と確認し、書き付けも添えられていたことから、この写真が土方歳三本人であることを疑う余地はなく、ほとんど同じ姿の全身像の写真もまた土方と断定ができるのです。

当時の写真術と修正

土方歳三の写真と呼ばれるものの中には、この2枚をオリジナルとして複製されたものや、修正を加えた上で複製されたものも多く出回っています。 こうした細部の異なる複製写真が現れると、土方歳三の新写真発見と騒がれることがありますが、基本的には複製品です。

といっても、当時の写真は現代のフィルムのように簡単に焼き増しができるものではなかったので、複製といえども歴史的には大きな価値があります。

幕末、最初に日本に入ってきたのはダゲレオタイプという技法でした。 これは1839年にフランスのダゲールによって発明された写真術で、銅版にヨウ化銀のメッキをして感光材料とし、白黒の反転していないポジ画像を作るという方式で、日本では銅版写真とも呼ばれていました。

このダゲレオタイプはオリジナル写真が銅版一枚で複製が作れません。

1851年、イギリスのアーチャーはガラス板に白黒の反転したネガ画像を焼き付け、そこから感光紙に焼き付けるという湿式写真術を考案します。

このコロジオン湿板写真と呼ばれた技法は、スイス人のロシェを通じて上野彦馬、堀江鍬次郎、前田玄造らに伝えられ、以後はこの方式で幕末から明治にかけての歴史上の人物たちの肖像写真が撮られることになります。

土方歳三の写真も紙焼きで残っているため、この湿式写真術で撮影されていることがわかります。 銅板写真と異なり、紙焼きで複製ができるとはいえ、画像をネガ、ポジと2回焼き付けるために、当時の湿式写真は銅版写真に比べると解像度が落ちる傾向にありました。

そのため、完成した写真に修正を加えて汚れを除去したり、露光の過多や不足で鮮明でない部分をガラス板のオリジナルに近づける作業が必要でした。これは、写真師の業務のひとつだったのです。 ですから、オリジナル写真は一枚でも、紙焼きを作る毎に細部の異なる写真ができるということになります。

また、新聞などに写真を載せる場合、写真の明暗を点や線の大小で表す方法が用いられていたため、製版しやすいように中間のトーンを消して二階調の絵のように修正することも近年まで行われていました。

昔の肖像写真にまるで絵のようなタッチに見えるものが多いのはそのせいなのです。

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土方歳三の写真を撮った人物

土方歳三の肖像写真を撮ったのは、箱館戦争の当時、箱館で写真館を開いていた田本研造であるとされています。 田本は紀州の生まれで長崎で西洋医学を学び、その後移住した箱館でロシア人医師ゼレンスキーから写真術を学んだ人物です。

田本は土方歳三だけでなく榎本武揚をはじめとする蝦夷共和国の幕僚たちの肖像写真も撮影し、また幕末から明治にかけての北海道の写真を数多く記録するなど、近代史の解明に大きく貢献することになるのです。

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