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禁門の変のとき新撰組は何をしていた?

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1864年、京都を追放されていた長州藩は起死回生のため御所の門を固める会津藩や薩摩藩と戦闘に入りしました。いわゆる禁門の変、蛤御門の変と呼ばれる事件です。

強硬策ともいえるこの事件のきっかけとなったのは、新撰組による池田屋事件でした。京都池田屋において長州藩士・吉田稔麿らが藩の勢力挽回をはかっていたところに新撰組がわずが4人で乗り込み、吉田稔麿ら7人を惨殺、20名を捕縛したという事件です。

これをきっかけにおこった禁門の変に新撰組も幕府方として参加します。彼らはどのような活躍をしたのでしょうか。

後手にまわった新撰組

長州藩の挙兵の一報を受け、新撰組を取り仕切る京都守護職・松平容保から6月24日に出動が命じられ、竹田街道を警備することになりました。竹田街道というのは伏見からの侵入ルートとなる場所で、会津藩とともに7月19日の禁門の変までの1か月にわたり鴨川の九条河原に陣を敷いています。

このとき、山南敬介は病のために、沖田総司は池田屋事件以後体調がすぐれなかったため、参加していません。

ちなみに池田屋事件で額を斬られる重傷を負った藤堂平助は出動したとの記録があります。

長州藩の暴挙に将軍・徳川慶喜は「大軍を擁して入洛するだけでも大逆行為」とし、孝明天皇も「今さら長州の入京は不可」と長州の哀願書を撥ねつけます。

しかし、それでも長州が兵を引かなかったため、新撰組が伏見の長州藩邸へ焼き討ちをかける準備をしていたところで遂に戦闘が開始されたのです。

新撰組はこの戦闘に局長・近藤勇が200名の隊士を率いて参戦しています。

新撰組は伏見から北上してきた長州兵と大垣兵が激突したことを聞くと、応援に駆けつけましたが、すでに長州は退却していたため伏見稲荷から墨染まで追撃にあたります。

ところが大垣兵の砲撃で負傷した伏見隊の主将・福原越後は船で大坂に逃れた後でした。

その後九条に戻ると、黒煙が見えたため御所にも駆けつけましたが、その時にはすでに長州の敗北が決していたため、今度は残存兵の掃討にあたります。

新撰組は7月の下旬まで大坂などで残党狩りを行いましたが、このように禁門の変における新撰組の活躍というのはすべて後手後手でこれといった活躍はなかったようです。

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幕末の天王山と近藤勇

天王山といえば、「天下分け目の天王山」ともいわれ、明智光秀と羽柴秀吉が天下をかけて対決した山崎の戦いの舞台ともなった場所です。

禁門の変でもこの山を舞台にひとつのドラマが生まれました。

新撰組が御所に駆けつけた後、その残存兵である久留米脱藩士で神官の真木和泉ら浪士17人は天王山に立てこもっていました。

禁門の変の3日後の21日、近藤勇率いる新撰組を先頭に会津兵が真木らを討つべく山へ入ってきます。近藤は天王山の麓の離宮八幡の境内に長州が捨てた大砲を見つけるとこれを一発、天王山に向けて撃ちました。

山の中腹のあたりにつくと、近藤は烏帽子に錦の直垂をつけた真木らを見つけます。「毛利家家臣の真木和泉である」と名乗る真木に対し、近藤も「私は幕府配下の近藤勇だ」と応えました。

真木がその後詩を吟じ、勝どきを上げると、周囲にいた浪士が発砲、幕府軍がひるんだすきに山頂に向かって走り去りました。

それを追いかけ近藤らが山頂に向かうと、そこには炎をあげて燃える小屋を発見。その中には自刃し黒こげとなった真木らの姿があったそうです。新撰組の隊士たちは死にきれなかった浪士たちの介錯をしたともいわれています。

関ヶ原の戦い以後、徳川氏への恨みを果たすべくその時機をうかがっていたともいわれる長州藩。

最後に「毛利家家臣」と名乗りを上げたことは、真木の毛利家の家臣である誇りと徳川氏に対する宣戦布告のように聞こえてきます。

毛利家の復讐は始まったばかり。

この禁門の変での敗北から8年後、徳川幕府は長州率いる明治新政府によって崩壊させられてしまうのです。

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