新撰組隊士 原田左之助は実は結婚していた! お相手はどんな人?

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殺伐とした幕末の世に身を投じ人斬り集団とも恐れられた新撰組。斬った張ったの日々のなか、癒しや安らぎを女性に求め、島原などに通ったり、色街の女性を囲い安息所に置くなど現地妻のような形で妾を作ったりしている隊士もいました。

そんな中、新撰組幹部の一人であった原田左之助は、1人の女性と正式な婚姻関係を結び子までもうけています。

喧嘩っ早くてお酒好き、でもいい男であったと言われる原田左之助の妻となった人はどういった人だったのでしょうか。

強くて美男!新撰組の主戦力

伊予松前藩の下級武士の子として生まれた原田左之助が紆余曲折の末、多摩の試衛館の食客となり、浪士組の一員として上洛したのは、文久3年(1863年)のこと。

槍術を良く使い、丹力、腕っぷしともに力強い勇猛果敢な原田は上洛以降、浪士組時代を含み、新撰組の関わる事件や出来事の多くその勇名を連ねています。

大阪力士事件、長州の間者殺害、芹沢鴨暗殺、池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路の変、と、これらすべてに原田左之助が参加していたこと、後ろを守り

万が一の時は一番危険ともいえるポジションである殿(しんがり)の十番組を率いていたことなどを考えると、局長である近藤勇や副長土方歳三の信頼も厚く、中心的な戦力として活躍していたことがうかがえます。

そんな原田左之助を、壬生浪士組時代に屯所としていた八木邸の家族、八木為三郎は「原田は気短で、二言目には『斬れ斬れ』と大きな声を出していましたが、いい男だった」と語り残しています。(子母澤寛/新撰組遺聞)

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愛妻家だった原田左之助

原田左之助は、慶応元年(1865年)京の仏光寺通りに住む町娘「まさ」と結婚しました。鎌屋町に所帯を持ち、翌年には長男「茂」が生まれています。

他の隊士たちと違い、妾や現地妻といった扱いではなく、正式に妻としてまさを娶ったことは、原田の駆け引きのない真っ直ぐな愛情が垣間見えます。

下級とは言え武士の子であった原田左之助と、町娘の婚姻は、世が世なら身分違いということで簡単には認められることはなかったでしょう。奇しくも身分制度の崩壊しつつある幕末に出会ったことが二人を強く結びつけたのかもしれません。

新撰組の幹部である原田の給金は決して少なくはなく、結婚生活は金銭面で比較的楽なものであったと思われ、また、生まれた子供を抱いて屯所に自慢しに来たとのエピソードもあるほど、子煩悩な一面もあったようです。

しかし、家族の幸せな時間も、そう長くは続きませんでした。

夫婦今生の別れと原田左之助の最期

結婚から約二年半後の慶応3年12月(1868年)、すっかり幕府軍となっていた新撰組は、討幕派との戦いのために、京を離れることになりました。

その時原田は200両もの大金を持参し、「軍用金を分配したので持ってきた、これは当面の生活費だ。自分に万が一のことがあった時は、自分の代わりに息子の茂を立派な武士にしてあげてくれ。頼む、頼む、お前はくれぐれも体に気をつけるように」と、言い残し慌ただしく隊に戻っていったそうです。

これが、夫婦の最後の別れとなってしまいました。

その後、新撰組は年明けに始まった鳥羽伏見の戦いで大敗を喫し、江戸へ敗走します。このことを期に、意見が対立しがちだった近藤・土方と原田は袂を分かち、永倉新八と共に新撰組を脱退しました。

その後に新たに結成された靖共隊で原田は副長になりますが、会津へ向かう途中の山崎宿で、江戸に単身引き返します。

はっきりとした理由は分かっていないとされていますが、朋友でもあった永倉新八は「妻子への情愛が断ち切れずに江戸にも戻ったのだろう」と語っています。

妻や子のいる京へは、江戸を抜けなければ行くことができません。しかし、江戸はすでに新政府軍に抑えられ身動きの取れない状況でした。抜き差しならない状態で、原田は彰義隊に加わり慶応4年(1868)5月15日の上野戦争に参戦することを選びました。

原田の性格上、死に場所ではなく、能力の活かし場所を求めた結果のように思えます。

ここで勝って何とか江戸を切り抜け、京の妻と子の元へ――。

しかし、この戦いで原田左之助は被弾、その傷がもとで2日後に命を落としました。29歳の短くも太い生涯でした。

夫である原田左之助との別れのとき、まさのお腹には二人目の子どもが宿り、臨月を迎えていました。新撰組が京を立ってから5日後に出産、そして1週間後にその子供は亡くなってしまったといいます。亡くなった原田の第二子は、禅雪童子と戒名をつけられました。

まさが、夫の死を知ったのは明治に入ってから。原田左之助の妻ということでたびたび政府からの尋問を受けたそうです。そのようなことがあったからでしょうか。

一人息子の茂からその後、原田左之助の子孫は歴史の波に紛れ、現在ではその系譜ははっきりしていません。

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原田左之助以外に結婚していた隊士

原田左之助の朋友、二番組組長の永倉新八は、島原のなじみの芸子であった小常を妻として迎えました。

慶応三年に、女児を設けましたが、妻の小常は産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。

その後すぐに、新撰組は京を離れることになり、生まれた娘を妻の姉に託し、それきりになってしまいました。

しかし、戊辰戦争を生き延びた永倉新八は明治32年頃、関西で人気の女役者となっていた娘と再会することができたと伝わっています。

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北村美佳子

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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