福島正則の子孫 改易された後はどう江戸時代を過ごした!?

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1624年に64歳で亡くなった福島正則ですが、その死後一旦は無禄となってしまった福島家。

お取り潰しとなった福島家の子孫たちは、如何に江戸の時代を過ごしたのでしょうか?

福島正則の死後

1624年に正則が亡くなり、家臣が正則の遺体を検体前に荼毘に付したために、幕府から所領2万石を没収され無禄となってしまい、大名福島家の歴史は閉じてしまいます。

しかし、幕府は関ヶ原以降の正則の功績や、他の大名家への影響を考えて、1625年に正則の息子・正利(忠勝の弟)に父の所領から没収した2万石の内3112石を与えて旗本として取り立てることにしました。

大名福島家として残ることは叶いませんでしたが、旗本福島家として再出発ができたようにみえました。

ですが、1638年正利が亡くなり、再び断絶の憂き目にあうこととなります。正利に子がなく、継ぐ者がいないためでした。 

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福島家の再興

正利の死後、福島家は一旦断絶します。しかし、今度は正利の甥・正長(忠勝の子)の子・正勝が1681年幕府から召しだされ、1683年上総国長柄郡夷隅郡の内2000石を与え、旗本として取り立てられました。

その後、正視・正森・正韶・正聖と続いたとされています。

また「福島正則伝」(田部井鉚太郎 著)によれば、「其の子孫代々旗下ととなりて、明治維新に及べり。今其の裔いづれにあるかを詳にせず。」とあります。

子孫の名前がわかる範囲では、正聖(1791以降没?)が最後ですが、その後も明治維新まで旗本として存続ができたのですね。

なぜ福島家は存続できたのか?

正則の死後、何度となく断絶の危機に陥った福島家ですが、再興を果たしたのはなぜでしょうか?

もともと正則は、豊臣家恩顧の大名として幕府に危険視されて、改易されたはずです。

その改易の理由も、城の改修にかこつけた幕府の陰謀ともとれます。

それなのに正則の死後、息子正利を旗本として取立てたり、またその正利の死後後継がいないために断絶になっても、正利の甥の子・正勝を召し出し、旗本として取立てたのでしょう?

一見、幕府の不可解ともとれるこの行動には、どんな意味があるのでしょうか?

そこには幕府の重臣の中に、正則の功績を深く称え、徳川幕府創設の功労者として恩に報いようとしたものがいたのかもしれません。

また正則が改易になった際に、国元の家臣が籠城騒ぎを起こしたときに、遠出をしていて決められた時間までに城に入れなかった家臣の中には、自害までするものもいたと言われています。それ程、家臣からの忠誠心の厚い、ひとかどの人物であった正則を惜しんでのことかもしれませんね。

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未來

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投稿者プロフィール

縄文時代~江戸時代までが大好きな独身歴女です。
歴史の登場人物に恋し、現代の男性には興味が湧かない変わり者です。
史実に隠れた疑問や歴史のロマンを、皆さんにおもしろく読んで頂ける記事を心がけたいと思います。

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