福島正則が改易されたのは江戸幕府の陰謀!?

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大坂の陣の後、福島正則は城の修復をめぐって武家諸法度違反に問われます。 それはただ単に罪を犯したという理由だけだったのでしょうか?

幕府による陰謀だったのでしょうか? はたまた他の理由があったのでしょうか?

福島家改易の経緯

大坂の陣も終わり、家康も亡くなってすぐの1619年、福島家は幕府から、城の修復の件で武家諸法度違反に問われます。

それは、台風でおこった水害のために壊れた城の修復をした際、幕府に届けを出さなかったというものでした。

正則は2ケ月も前から届けを出していましたが、前年に禁止されていた新しい城の築城を行い、それを毛利家に幕府へ報告され、その新しい城を破壊するように命じられた後だったこともあり、正式に幕府から許可が下りていなかったからでした。

その時参勤交代で江戸にいた正則が、「雨漏りがするため、やむを得ず」との申し開きを行い、修復部分を破壊するという条件で、一旦は落ち着きました。

ところが、幕府が「本丸以外の修復部分を破壊すること」という要求だったのに対し、福島家は本丸の修復部分を破壊しただけだったため、幕府を更に怒らせてしまうことになってしまいます。

また人質として江戸に送るはずだった息子・忠勝の出発が遅れたことも重なり、時の将軍・秀忠の命により、安芸・備後50万石を没収され減封・転封される事態にまで発展してしまいました。

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福島家の改易の理由とは?

幕府側が福島家を改易にしたのは、ただの武家諸法度に違反をしたからというだけだったのでしょうか。

豊臣恩顧の大名であり、豊臣秀頼と徳川家康の謁見の際には刺し違えるとまで言って憚らなかった福島正則を危険視していたからこその陰謀論も囁かれます。

改易の真相についてみていきましょう。

確かに関ヶ原の戦い以降、徳川家にとって邪魔となる豊臣恩顧の大名の改易・減封処理を進めてきていたことを考えてみると、幕府にとって、福島正則は危険かつ邪魔な存在としていた事は、容易に想像ができます。

そうやって考えてみると、正則の改易は、他の外様大名への見せしめとも考えられます。

しかし、ここでこの改易までの流れで1点疑問点が残ります。

それは、幕府が最初から福島家を改易にするつもりだったのかということです。 というのも、確かに幕府は城の修復に難癖をつけたように見えますが、破壊をすれば許すという条件を出し、穏便に済ませようとしたようにも見えるからです。

陰謀であれば、最初から城の修復を理由にすぐに改易を命じることが出来たはず…と考えてみると、陰謀論かどうかという点には疑問が残ります。

ですので、せっかく幕府に申し開きをしたのに、その意に従わなかった正則の不覚ともいえるのではないでしょうか?

福島正則と福島家のその後

減封・転封が決まった正則でしたが、一旦は陸奥国津軽郡4万7千石に移封されることになりました。

しかし、津軽家からの申し出により、幕府はこれを取り消します。

そこで幕府は、越後国魚沼郡の2万5千石と信濃国高井郡の2万石の合わせて4万5千石を与える 
ことにしました。

正則は、移封したあと家督を息子・忠勝へ譲り、自分は隠居し出家します。 しかし、1620年息子の忠勝が先に逝去してしまい、この時越後国魚沼郡の2万5千石を幕府へ返上しています。

正則は1624年に、64歳で亡くなりますが、亡くなった後に家臣の津田四郎兵衛は幕府側の検死役が到着する前に正則の遺体を火葬してしまい、幕府の咎を受け、これにより残りの領地2万石も没収されてしまう事となります。

これによって、大名福島家の歴史は幕を閉じることになり、その後、忠勝の弟である正利が3千石で旗本としての福島家を起こしますが、後継ぎがおらずに断絶。

最終的には忠勝の子である正勝によって、2千石の旗本として江戸時代を正則の子孫たちは生きていくことになったのでした。

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未來

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投稿者プロフィール

縄文時代~江戸時代までが大好きな独身歴女です。
歴史の登場人物に恋し、現代の男性には興味が湧かない変わり者です。
史実に隠れた疑問や歴史のロマンを、皆さんにおもしろく読んで頂ける記事を心がけたいと思います。

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