乃木希典が連隊旗を奪われた経緯 そして、殉死との関係

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乃木希典は大日本帝国陸軍大将で、日露戦争における旅順攻囲線の指揮をして活躍した人物です。

また、昭和天皇の教育係を務め、明治天皇が崩御された際殉職したことが国内外を問わず有名な人物です。

彼が28歳であった1877年、鹿児島で西郷隆盛を盟主とする西南戦争が起こりました。

その西南戦争に乃木は政府軍として従軍しましたが、その際に軍にとって神聖なる連隊旗を西郷軍に奪われるといった失態を冒してしまいました。

その経緯などについて詳しくみていこうと思います。

連隊旗を奪われた経緯

西南戦争が勃発すると、乃木希典は政府軍として第14連隊を率い、1877年2月22日夕刻、熊本県植木町付近において西郷軍との戦闘に突入しました。

この時の乃木軍は、強行軍であったためわずか200人ほどの軍勢であり、対する西郷軍は倍の400人ほどを擁していました。乃木軍は数に不利を被りながらも、近代的な装備をかまえていたので3時間ほど応戦していましたが、西郷軍に仲間が加わり、乃木軍の退路を断とうとしたため、包囲される前に退却し、後方で隊列を立て直そうとしました。

しかし、その際に連隊旗を持っていた河原林雄太少尉が西郷軍に討たれ、連隊旗は西郷軍の岩切正九郎に奪われてしまいました。

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連隊旗の重要性と乃木の自殺未遂について

この連隊旗は明治天皇から親授されたものであり、官軍であることを表わすもののため、政府軍にとって非常に重要なものでした。特に天皇を崇拝している乃木少佐(西南戦争当時)にとって連隊旗は天皇の代わりといってもいいくらい大切に思うものだったのでしょう。

この連隊旗を奪われた事件の後、乃木は実質的な総司令官であった山県有朋に厳しい処分を求めましたが、山県はこれは乃木の責任ではないと不問に付しています。

しかし、連隊旗を奪われたことを非常に恥辱と感じている乃木は何度も自殺を図りましたが、乃木と同じ陸軍少佐であった児玉源太郎らに説得されて自殺することを一旦は諦めたそうです。

ですが、このことが生涯乃木の心に重くのしかかり、1912年、明治天皇崩御の際に殉死するきっかけとなったと言われています。

殉職の際、乃木はいくつか遺書を残したとされ、その中の「遺言条々」と題したものの中には、この自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うためのものであるという旨のことが書かれていたそうです。

この殉職は西南戦争から35年もの月日が流れていましたが、ずっと気に病んでいたのでしょう。それほどまでにこの連隊旗は軍人にとって大事なものであったということがわかります。

その他の連隊旗が奪われた事件

神風連の乱では、歩兵第13連隊軍旗が一時敵方に奪われましたが、児玉源太郎がただちに反撃に出て奪い返しました。

また、明治39年10月2日には北韓警備に当たっていた歩兵第49連隊は、設備の不備から出火し、建物とともに軍旗を焼失してしまうという事故がありました。この時は連隊長以下数名が軽い謹慎処分(最長30日)を受けたそうです。

さらに昭和17年11月16日にはパラオ沖でアメリカ軍の攻撃に遭い、輸送船と共に海没してしまいました。連隊長は再三再交付を要求しましたが連隊は解散され、兵員は懲罰的に激戦地への配置を余儀なくされました。

このほかにも連隊旗は奉焼という形で無くなったことが多数あります。

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Sakura

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投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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