丹羽長秀の死因は腹にいた虫だった!?

Sponsored Links

織田信長に仕えた武将・丹羽長秀。

織田家の家臣の序列としては柴田勝家に続く二番家老という立ち位置でした。

そして、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後は豊臣秀吉(当時は羽柴)と共に明智光秀を山崎の戦いで討ったとされています。

地味なイメージがある彼ではありますが、堅実な働きぶりで周囲の信頼を得ていた武将とされています。

しかし、その死には、実に壮絶で奇怪なエピソードが伝わっているのです…!

長秀の死

丹羽長秀は、1585年(天正13年)4月16日、胃癌のために51歳で亡くなったというのが通説とされています。

しかし、その死にはいくつかのエピソードが伝わっており、その中の1つが腹に虫がいたという物なのです。

割腹自殺説

信長が亡くなった後に信長の後継者を決めるために行われた清洲会議で三法師(信長の孫で嫡男信忠の子)を後継者とするという事を柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興で決定したものの、秀吉は織田家を蔑ろにし、しまいには自らが政治を執るようになります。

そのことに憤り、信長の恩に応えられなかったと感じた長秀が割腹自殺を行い、自らの胃癌の病巣部を取り出し、秀吉に送りつけたという説が巷には伝わっていますが、この真偽は定かではありません。

Sponsored Links

腹の虫の苦痛に耐えられなくなった説

そして、その際に腹に虫がいたのでは?という話があります。

これは江戸時代の儒学者・林羅山によって書かれた「秀吉譜」に記録されており、長秀はずっと「積聚(しゃくじゅ)」という腹部の異常に悩んでおり、その苦痛に耐えられずに自刃したという記述があります。火葬すると、積聚は燃え残っていて、それはまるで亀のような形をしており、鳥のような嘴を持っていたといい、秀吉はそれを医家の竹田法印に賜りました。

その後、江戸時代中期に平戸藩主の松浦静山がそれを見たいと思い、積聚が収められている箱を借りてきたという話があります。

借りてきた箱を開けてみると、銘が彫ってあり、それによると、長秀は「積虫」という病に苦しんでいましたが、「なぜ積虫のために殺されようか」と、虫もろとも腹を刺して死んだのだということでした。

刃に刺さって出てきた虫は死んでおらず、竹田法印が薬をひと匙与えるとようやく死んだので、秀吉がそれを法印に与えたとも彫ってありました。

本当のところは、どうだったの?

長秀は柴田勝家に続く二番家老でしたので、織田家への忠誠は人一倍だったはずでしょう。

しかし、秀吉がどんどん力をつけて織田家をないがしろにして、自ら天下人への階段を上って行こうとしている事は、長秀にとっては多大なストレスだったはずです。胃を病んでも仕方ないのかもと思いますね。

ですが、気になる点としては堅実な仕事で評判だった彼が、秀吉に内臓を送りつけるのか?という部分です。逆にそんな彼だからこそ、この様な壮絶な行動に出たのだとしたら、それは本当にドラマティックなことですよね。

そういう言い伝えがあるからこそ、積虫の話も出てきたのでしょう。実際、「針聞書」(はりききがき)という戦国時代の医学書には、「陽の亀積」(ようのかめしゃく)という、積虫と思われる虫のスケッチも出てきます。

果たして本当にこの虫が長秀の腹にいたのか…みなさんはどう思いますか?

Sponsored Links

真田丸 関連商品


この記事が気に入ったら
いいねで歴史の小ネタを毎日お届け!

ひすとりびあの最新情報をお届けします

Twitterでひすとりびあをフォローしよう!

xiao

xiao

投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

この著者の最新の記事

人名・事柄名

ページ上部へ戻る