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新撰組初期メンバー 水戸派の新見錦が切腹させられた理由

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時代の大きな転換期、幕末。

様々な思想や思惑が入り乱れてはぶつかり合い、多くの血が流れた時代でもありました。

咲いても決して実を結ばないあだ花のように、歴史の中で苛烈に咲いては散っていった新撰組も、組織として一枚岩になるために、粛清と暗殺を経た経緯がありました。

新撰組草創期には幹部であった新見錦が切腹したのも、そのうちの一つです。

新撰組の前身である壬生浪士組においては、一時期、近藤勇・芹沢鴨と並んで局長の立場にあったこともある新見錦が、どのような流れで切腹する事態にまでなってしまったかを、検証していきたいと思います。

計略的!切腹の理由とその状況

結論から言うと、新見錦の切腹は、新撰組内の権力を掌握するための近藤勇率いる試衛館一派の計略の1つと言われています。

まだ、壬生浪士組と名乗っていた頃の新撰組は、結成当時、その権力構造は、芹沢鴨率いる水戸派と、近藤勇率いる試衛館派の二つに大別されていました。二派構造になるまでも、両派に属していなかった者達の粛清と脱退がありました。

水戸派も試衛館派も、天皇をたすけ天皇の意思の元、将軍が指揮を執り日本を狙う海外列強を追い払おうという「尊王攘夷思想」を掲げていたものの、武力集団としての「壬生浪士組/新撰組」の使い方には、それぞれの思惑があったようです。

壬生浪士組は、その時の京の治安維持を担っていた、京都守護職である会津藩に抱えられていました。

討幕の機運高まる幕末の京都は、殊に治安が悪く、幕府側とされる人物が暗殺され首が晒されるという事件も多発していました。市中警護や不貞浪士の取り締まりなど京都守護職の手に負えない汚れ仕事までも引き受け得る組織が急ぎ必要とされ、将軍が上洛する京の治安のを守るためにも、傭兵的なポジションの治安維持組織として存在していたのが当初の新撰組、壬生浪士組です。

尊王攘夷思想を掲げて、尊攘運動の最前線で、いわば時代をリードするという理想を抱え上洛した彼らにとって、京の治安を守るだけの隊務は必ずしも満足できるものではなかったのかもしれません。

尊王攘夷思想のメッカと言うべき水戸藩出身の芹沢鴨は隊内の支持も高く、同郷の新見錦もまた、浪士組として上洛する際も小隊頭を任されていることから、名の知れた人物であったことがうかがえ、芹沢鴨の腹心・右腕とも言われています。

また、文久3年(1863年)4月に、大阪商人から100両の借金をした際の添え書きには、新見、芹沢、近藤の名が連なり、結成直後の人事では近藤勇・芹沢鴨・新見錦の三方が隊内で同等の地位にあったことが推測されます。(翌5月には、土方歳三、山南敬助と並ぶ副長に降格されています。)

しかし、水戸派の面々は酒癖・女癖が悪い上荒っぽく、素行の悪さが目立つ面がありました。

そのため無理な金策や市中での乱暴事件などの苦情が多く噴出し、その苦情の行く先は彼らを抱える会津藩に持ち込まれました。

困った会津藩は、その原因として目される芹沢鴨の処分を新撰組にひそかに命じたと言われています。

乱暴者の集団として認知されつつあった壬生浪士組を持て余し始めた会津藩の思惑と、隊内の権力を一手に握りたい近藤一派の思惑が一致した瞬間でもありました。

芹沢鴨は神道無念流の免許皆伝の腕前を持ち、文武に優れたいわばエリートととも言えます。隊内でも支持も厚く、簡単に暗殺できるような人物ではありませんでした。

新見錦もまた、神道無念流の免許皆伝とされ、その腕前は達人級と言われており、水戸派を一掃するにはよく作戦を練らなくてはならないと近藤は考えました。

近藤一派は、まず始めに芹沢の片腕をそぐ意味合いで、腹心と言われていた新見錦の処分に乗り出します。

新撰組幹部であった永倉新八の記した「新撰組顛末記」によると、新見錦が祇園新地の料亭「山緒」で遊蕩中、近藤一派が新見のもとに大挙し悪行の数々を隊規と照らし合わせ、斬首か切腹かを迫ったと言いますが、真相ははっきりしていません。

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同一人物?「田中伊織」という人物

文久3年の5月25日に、会津藩松平容保に提出した名簿には、新見錦の名は載っていません。同年入隊した島田魁の記した「英名録」にもその名はなく、屯所としていた八木邸の家族、八木為三郎は「覚えていない」「いつの間にか居なくなった」と証言していると言います。

新撰組研究の古典ともいわれる、西村兼文の「新撰組始末記」にもまた、「新見錦」の名前はでてきません。その代わりに、同書には壬生浪士組の創設者の一員として「田中伊織」という人物に言及し、「近藤の意に応ぜざる事のあるをにらみ、闇殺す」と、暗殺の事実を書き残しています。

新撰組の研究者の間では、田中伊織こそ新見錦という意見もあるようです。

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本当は長州派!? 芹沢鴨もとめられなかった理由は

明治時代になって、長州派の志士を祀るためにつくられた「霊山招魂社」に、新見錦の名を見ることができます。

また、新徴組を離隊後、勤王運動をしていた暮地義信という人物が、維新の際に活躍した志士を記した「近世高名一覧勤王為皇国」にもその名があります。

これらのことから、新見錦が切腹させられた理由は、単なる乱暴狼藉や数々の悪行というよりも、討幕急先鋒である長州側との密接なかかわりがあったことが理由なのではという説もあるようです。

新見錦の切腹した件について、なぜ同派の芹沢鴨が止められなかったのかという疑問が思い浮かびますが、新見錦の乱暴は芹沢が止めても聞かなかったとの説も確かにあるようです。

しかし、もしも新見錦が長州や攘夷過激派とのつながりがあったとしたなら、新撰組の局長としてはいくら同郷で同じ志を抱えてきたとしても、止めることはできなかったのではないかとの推測もできます。

享年29歳ともいわれる新見錦は、史料が少なく多くのことが推測の域を出ない、いまだに謎の多い人物です。

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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