直江兼続の兜の愛の由来や意味とは

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直江兼続は謙信の姉の仙桃院に早くからその才を見出され、幼い頃から上杉景勝に仕え、生涯に渡り内外から上杉家を支えた重臣です。家康を激怒させ関が原の戦いの発端となった「直江状」は有名です。兼続の名前と共に紹介されるのが兜の前立ての「愛」の文字です。合戦の場で「愛」というのも不似合いですよね。では兼続の人生を振り返りながら「愛」の意味についても考えていきましょう。

兼続の生涯

1560年、上田の庄で樋口兼豊の長男として誕生しました。幼名を与六、後に、樋口兼続・直江兼続・重光と変わります。小さい頃から聡明で、上杉政景の子・景勝の近習として仕えることになります。この頃から二人は深い絆で結ばれていきました。

1581年、景勝の側近・直江信綱が殺される事件が起き直江家を継ぎます。内政・外交などの取次ぎのほとんどを兼続が担当することになり、景勝の絶大な信用を得ていました。

秀吉の時代になると、兼続は秀吉からも「政治を任せられる人」と高く評価されています。景勝が会津120万石に加増移封された時には、兼続は秀吉から6万石の所領が与えられるという破格の待遇を受けました。

1598年、秀吉が亡くなると家康が台頭。家康から謀反を疑われた兼続は、家康の書状に対して正々堂々と反論しただけでなく、家康の批判も含めた内容の書状を送りました。これが有名な「直江状」と言われるもので、家康が激怒し関が原の誘引となったと言われています。

関が原の戦いで西軍についた上杉家は兼続の才覚を発揮しますが、西軍は敗北。兼続は徹底抗戦を主張する家臣を抑え、上杉家の存続のために和議を申し入れ、出羽米沢30万石に減封されましたが、見事に上杉家を存続させることに成功しました。

兼続の愛のある逸話

  • 3歳年上の妻・お船は再婚でしたが、夫婦仲はよく兼続は側室を持ちませんでした。
  • 米沢に移され90万石を没収された上杉家は大変な財政難に陥りました。しかし兼続は自らの所領を返上するなどの努力の結果、家臣を召し放ち(浪人)させることもなく米沢に移りました。
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兼続の愛のない逸話

伊達政宗とは仲が悪く、江戸城で会っても挨拶をせず怒った政宗に「戦場では(敗走している)後姿しか見ていないのでわかりませんでした」と言ったり、政宗が自慢していた大判を直に持たず扇子で受け取っているのを見咎められ「先代・上杉謙信からの采配を触るので不浄のものには触れられない」と答えたといいます。

家臣の無礼討ちを不服として訴えて来た者に対して、慰謝料で納得して貰うように説得しますが聞き入れてくれず、死んだ使用人を返せという遺族に、使用人を返すがあの世に迎えにいく者がいないので行ってくれ」と遺族の首をはね、それを晒し首にし首の横の立て札には「この者達を使いに出すので使用人を返せ」と閻魔様への嘆願書を書いたといわれいます。

兜の愛の由来と意味

愛はどこにあるのか判断が難しい兼続ですが、兜の前立てにある「愛」の文字は現代の私達が考える「愛(Love)」とは少し意味が違っている様です。

一般的に言われているのは、愛染明王・愛宕信仰・仁愛(愛民)の「愛」です。

謙信が毘沙門天の「毘」の文字を使ってたことを踏襲して、ご神仏の一文字を使っていると考えられます。では、愛染明王・愛宕神社のどちらなのでしょうか?どちらも軍神なので可能性はありますが判断するのは難しいところです。

しかし、兼続のもう1つの兜には普賢菩薩の梵字が使われていること、普賢菩薩は愛宕神社で祀られていることからも、愛宕信仰の可能性が高いのではないかと思われます。

また謙信が愛宕神社に勝利を祈願していることも考え合わせると、やはり愛宕信仰の「愛」の可能性が高いのではないでしょうか。みなさんはどう思われますか?

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