大化の改新の立役者、中臣鎌足は朝鮮半島からの帰化人だった!?

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天智天皇の懐刀として、大化の改新を行い、死の前日には長年の功績を称えて大織冠と藤原の姓を賜った中臣鎌足。

彼は百済の王族だったという説がありますが、それは本当のことなのでしょうか?

百済王子・豊璋との足取りが似通っている!?

まず結論から言うと、中臣鎌足=百済王子・豊璋ではないかという説があるのです。

それは、鎌足が文献に登場する時期に豊璋が来日、鎌足が文献から消える時期に豊璋は帰国というのが重なっているため、鎌足=豊璋ではないかというのです。

百済の王子であった豊璋は、日本に亡命していました。

鈴木靖民の説では、大乱によって異母兄に太子の地位を奪われて放逐され、倭国へ人質という形で国外追放されたと言います。

そんな豊璋が日本にやってきたのは諸説ありますが、鈴木の説に基づくと642年とされています。

対する中臣鎌足は644年、家業であった神祇伯(祭祀を司る官)に就くようにと言われましたが、これを辞退して摂津国に退いたと「日本書紀」に出てきますが、それ以前のことはあまりわかっていません。

662年に豊璋は約20年ぶりに帰国を果たしましたが、この頃の鎌足の動向について詳しいことはわかっていません。(654年に大紫冠に任ぜられ、669年に亡くなった、ということだけです)

そして、豊璋が百済に帰国した翌年の663年に白村江の戦いが勃発し、日本と百済の連合軍は、唐・新羅の連合軍に敗れ、百済は滅亡してしまいます。

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通説での中臣鎌足の出自

藤原氏初期の歴史が書かれた伝記である『藤氏家伝』には、中臣(藤原)鎌足の出生地は大和国高市郡藤原(現:奈良県橿原市)とされています。

平安時代後期に書かれた『大鏡』によると、常陸国鹿島(現:茨城県鹿嶋市)だとされています。

『大鏡』よりも『藤氏家伝』の作られた時期の方が、(鎌足が生存していた時から)近いですし、何より藤原氏の伝記ということで『藤氏家伝』のほうが信憑性が高いと私は思います。

しかし、中臣鎌足の父親は中臣御食子(なかとみのみけこ)といい、鹿島神宮の神官の任についていたとも言われており、それが本当のことならば、同地で息子の鎌足が生まれたとしてもおかしくありません。

また、中臣氏は、日本神話における神である天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖としています。

天児屋命は「岩戸隠れ」の際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いた時に鏡を差し出した者だとされています。

中臣鎌足=百済人の真偽は?

古代史においては根拠となる資料が少なすぎるので(他のことについてもそうですが)、どれが正しいかという明確な根拠はないに等しいといっても過言ではありません。

ですので、中臣鎌足=百済王子という可能性も否定はできませんし、この時代は中国大陸や朝鮮半島から移住してきた渡来人が数多くいたことは間違いありません。

中でも、豊璋の弟で、最後の百済王:義慈王の息子である善光(禅広とも)は後に持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済系士族の代表的な存在となりました。

ただこの中臣鎌足=百済王子説もはっきりとした根拠があるわけではないですし、その出自は謎に包まれている…といったところでしょうか。

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Sakura

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投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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