大化の改新の立役者 中臣鎌足とされるミイラはどこにある!?

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中大兄皇子(後の天智天皇)とともに、当時権勢をふるっていた蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)中央集権的律令国家を目指す大化の改新を推進した中臣鎌足。

後の藤原家繁栄の礎を築いた彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。

そして、そのお墓とされる古墳とそこから発見されたミイラの秘密に迫ります。

中臣鎌足の功績とその最期

中臣鎌足は中大兄皇子とともに、蘇我氏政権打倒のために、蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮において暗殺し、入鹿の父親である蝦夷を自殺においやって、天皇中心の政治体制にする動きに貢献しました。この功績から内臣に任じられ、中大兄皇子の腹心として、彼が天智天皇として即位した後もずっと彼に従ってきました。

そんな彼は669年の秋口には床に伏し、二度と公務につくことができなくなりました。そして、死の前日、天皇の勅使が病床にやってきて、長年功績を称えて大織冠(当時の最高位)と藤原姓と内大臣の地位を賜ります。こうして後に最大の氏族となる「藤原氏」の始祖となった鎌足ですが、669年10月16日に永眠しました。死因に関しては落馬事故からの影響とされています。

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阿武山古墳の発見

1934年、大阪府茨木市安威と高槻市奈佐原の市境にある阿武山にて、京都大学の地震観測施設の建設中に古墳が発見されました(阿武山古墳)。

内部には夾紵棺(きょうちょかん/麻布を漆で貼り重ねる手法によって作られた棺)が発見され、その中には60歳くらいの男性のミイラ化した遺体がほぼ完全に残っていたそうです。

遺体の胸から頭にかけて金の糸が多数散らばっていたことが確認されました。このことから身分の高い者の墓として考えられ、皇室に繋がる可能性もあることから、あまりの調査は冒涜にあたるという意見があり、府などの調査はあまりなされないままこの時は埋め戻されることとなりました。

ミイラ化した男性の正体は!?

1987年、埋め戻す前に取られたX線写真の分析の結果、被葬者は腰椎などの大けがをし、その二次的な合併症から死亡されたことがわかり、藤原鎌足の死因(落馬事故の後死亡)と一致することがわかりました。

また、発見された金の糸は冠の刺繍糸であることが判明し、これがおそらく大織冠であるとされ、当時それを受け取った人物は、日本に亡命していた百済王子豊璋と鎌足だけだったことから被葬者はほぼ鎌足であるにちがいないとされました。

しかし、「多武峯略記」によると鎌足は「最初は摂津国安威(現・大阪府茨木市安威)に葬られたが、後に大和国多武峯に改葬された」と記されており、藤原家の私伝である「藤氏家伝」には鎌足の墓は京都市山科区に存在すると書かれてあります。

また、被葬者は蘇我倉山田石川麻呂または阿部倉梯麻呂の墓だという説もあり、未だにこの阿武山古墳は中臣(藤原)鎌足の墓であるとは断定されていません。

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投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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