戦艦大和の最後とその沈没地点とは

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戦艦「大和」といえば、映画やドラマで取り上げられることも多く、半世紀を過ぎた現代でも年代を問わず知っている人が多い日本を代表する戦艦です。しかし、大和は秘密裏に建造され知る人は少なかったようです。

ではまず、戦艦大和はどんな戦艦だったのでしょうか?

戦艦大和の概要

大和は当時の日本の技術を駆使した日本海軍最大の戦艦です。全長263メートル、世界最大の46cmの主砲を備え、最強の攻撃・最強の防御を備えていました。

当時の人々は「不沈戦艦」と言われ、大和が沈んだら日本は終わりだと思う程、大和に期待していました。

しかし、その期待に反して戦艦大和は連合艦隊司令部として使われ、ほとんど出撃する機会がありませんでした。ミッドウェー海戦では戦う機を逃し、マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦と最後の出撃となった坊ノ岬沖海戦だけだったのです。

1945年4月、米軍が沖縄上陸したことを受けて考えられた「天一号作戦」の為に沖縄に出撃。しかしその途中の坊ノ岬沖で活躍することもなく撃沈されてしまいました。次に大和の最後の戦いについて見てみましょう。

海上特攻

太平洋戦争も末期になると日本の連合艦隊は多くの主力艦艇の多くを失っていました。さらに物資が不足し艦の燃料も少なくなり、大和の様に大きな戦艦は広島の呉にある軍港に繋留されていた。

1945年3月、アメリカ・イギリスは日本の本土上陸を目的として、まず沖縄方面に進攻。日本軍は本土上陸を阻止するため「天号作戦」を発動します。

この作戦は沖縄の支援が目的で、沖縄に到着した時には海岸に自力で座礁し砲台になってアメリカを迎え撃つという作戦でした。

その時に大和にも「海上特攻」の命が下ります。特攻の言葉に最初は納得がいかなかった司令部も「一億総特攻のさきがけになって欲しい」という言葉で納得したようです。そして大和は出撃していきました。

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坊ノ岬沖海戦

4月7日12時34分鹿児島県坊ノ岬沖で射撃を開始しました。米軍は複数の艦からの魚雷攻撃、戦闘機と爆撃機の攻撃を開始し、大和はこの攻撃を回避する事はできませんでした。

アメリカ軍の第1・第2波・第3波状攻撃は、大和に多数の爆弾の直撃を加えました。艦内は火災が発生し、アメリカ戦闘機の機銃掃射・ロケット弾攻撃で対空兵器が破壊。死傷者が続出しました。14時20分、大和は横転、大爆発し沈没。大和の乗組員3332人のうちのほぼ9割が戦死しました。

By: Kzaral

大和の沈没地点

日本軍の報告による沈没地点は北緯30度22分、東経128度04分。

戦後、大和の調査が行われたが発見されなかった。そして戦後40年経った1985年、潜水艇の調査で大和が発見されました。発見の決め手となったのは船首の菊の紋章でした。

現在の大和は、北緯30度43分 東経128度04分。水深345mの海底にその姿があります。艦体は艦首と艦尾の前後2つに分かれ英霊と共に眠っています。

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