戦艦武蔵の最期と沈没の原因

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戦艦大和の同型艦として極秘のうちに建造された戦艦武蔵。

長らくその沈没した艦体が発見されることはありませんでしたが、先日フィリピンのシブヤン海中で発見され約70年ぶりにその姿を見せました。

武蔵はどのようにしてシブヤン海に沈むことになったのでしょうか。

レイテ沖海戦

1942年に三菱長崎造船所での進水に成功し海軍に渡った武蔵は、そののち何度か作戦に参加しましたが、実戦らしい実戦を経験することはありませんでした。

そんな武蔵の最期の戦いとなったのが1944年10月に行われたレイテ沖海戦です。

初めて神風特別攻撃隊による攻撃が行われた戦いでもあり、日本もアメリカも可能な限り多くの軍を投入して臨んだことから、史上最大の海戦といわれています。

レイテ島は、フィリピン中部にある島で、レイテ沖海戦が起こった頃には日本の支配下にありました。

アメリカにフィリピンを奪還されれることは、本土と南方資源地帯との連絡が断絶することを意味し、国内資源が乏しく、南方資源に頼って戦争を行っていた日本にとって、戦争の敗北につながる大きな問題だったのです。

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武蔵の活躍は

帝国海軍の総力をもって臨んだこの海戦に、武蔵も参加します。

しかし、その戦闘は見るも無残なものだったといわざるを得ないほどのものでした。

そもそもその巨体ですから、武蔵の戦闘における存在価値は46センチもある主砲でした。しかし、第一次攻撃時に主砲の命中率を左右する射撃方位盤が使用不能となってしまいます。

しかも、その主砲が本来標的とすべき戦艦に向けて発射されることはなく、航空機ばかりを相手にすることになりました。

小回りのきく航空機に巨大な主砲があたるはずもなく、第二次~第五次にかけて53発発射されたそのほとんどが戦果をあげることはなかったものと考えられます。

むしろ味方まで危険にさらす可能性もあり、戦闘の妨げになった事例があるそうです。

さらに甲板上の機銃員たちの25ミリ機銃は敵機を撃墜することはできず、主砲の激しい爆圧の中で厳しい戦闘を強いられたのです。

魚雷の命中、航行不能へ

武蔵は第一次攻撃で魚雷1本、第二次攻撃で爆弾1発、魚雷3本、第三次攻撃で爆弾4発、魚雷5本、第五次攻撃で爆弾10発以上、魚雷10発以上を受け、退避命令が出された時には、すでに時遅しで、浸水により航行不能となってしまいまいました。

その巨体ゆえに舵の効きは極端に悪く、航空機や魚雷といった小回りのきく攻撃を避けることはできなかったのです。

航空戦力が枯渇していたレイテ沖海戦において、戦艦は丸裸の大きな標的でしかありませんでした。

沈没した艦体は発見されず

沈没後、アメリカ海軍は沈没した武蔵の艦体を探深機で探索しました。

沈没地点としては、武蔵の副長・加藤大佐が退艦時に記録した東経122度32分、北緯13度7分と駆逐艦・清霜の報告した東経122度41.5分、北緯12度48分の二つが候補としてありました。

しかし、そのどちらからも武蔵は発見されませんでした。

そのことから武蔵は艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の潮流に乗って海中を彷徨いつづけていると噂されたそうです。

その武蔵が2015年3月3日、マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレン氏によって遂に、シブヤン海の水深1kmの地点で発見されたのです。

激しい戦闘により、1023人が戦死、武蔵の艦上には生前の原型をとどめない遺体が多くあったといいます。

映画化された「大和」と違い、これまで日の目を見ることのなかった「武蔵」。しかし、艦体が発見され日の目を見たことで、武蔵と共に戦った人々にも関心が向けられることとなり、彼ら魂も無事成仏できるのではないかと何だか嬉しく感じました。

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