明智光秀と豊臣秀吉、彼らの関係性に迫る!

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明智光秀と豊臣秀吉と言えば、本能寺の変の後、山崎の戦いで秀吉が光秀を破り、結果として彼の天下取りへの大きな一歩となったわけです。

そのことばかりがついクローズアップされますが、考えてみれば、2人は同じ時期を信長の家臣として過ごしたのですよね。毎日顔を合わせていたと考えても良いと思います。

そんな2人、いったいどんな関係性だったのでしょうか。仲は良かったのでしょうか?立場はどちらが上だったのでしょうか?

意外と謎の多い2人の関係について、今回は見ていきたいと思います。

両者が信長に仕えた時期

光秀は、朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕え、彼を頼ってきた足利義昭を信長に引き合わせる役目を担い、織田・足利両俗の臣下となりました。

1569年になると、秀吉や丹羽長秀(にわながひで)らと共に京都周辺の政務を任されました。このため、1568年頃には信長に仕えていたと考えられます。

一方、秀吉は1554年頃から小者として信長に仕えるようになったとされています。

本能寺の変は1582年のことなので、2人は13年ほど共に仕えたことになります。

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2人の立場が逆転した時期

光秀は信長の前に現れたときには、足利義昭を引き合わせる役目を担う立場でした。

将軍となる人物をサポートできるほどの能力があり、信長もそれを見込んで家臣にしたので、信長の臣下となったときにはいわゆる「デキる」存在だったと考えてもいいと思います。秀吉ももちろん徐々に頭角を現していくわけですが、この時点では光秀の方が評価が高かったと考えられます。

しかし、秀吉の存在感が急激に増すのは、中国地方の征伐戦です。

秀吉は、兵糧攻めによる三木合戦(三木の干殺し)や、兵糧を買占め相手を飢餓状態に追い込んだ鳥取の「渇え殺し」、高松城の水攻めなど、壮絶な戦いを展開し、毛利氏を中心とした中国地方の勢力を叩きました。この凄まじい戦いぶりに、信長の評価が一気に上昇したと言われています。

秀吉の援軍に行くよう指示されプライドが傷つき、本能寺の変に至った?

あと一息で毛利氏を叩き潰せるところまで来た秀吉は、信長に援軍を求めます。

すると、信長は自身も出馬を決め、先鋒隊としてはまず光秀に行くように命じたのです。

このことが、光秀のプライドを傷つけたという説も多く唱えられています。

出自不詳と言われながらも、土岐源氏の流れを汲むともされている彼は、自分の血筋に誇りを持っていたとも考えられます。一方の秀吉は、ほぼ完全に出自不詳で、もしかしたら百姓だったかもしれないのです。だとすれば、プライドが傷つくのは有り得ることです。

ただ、本能寺の変の理由としては、現在も確固たる説はなく、様々な説が存在します。そのため、このことが一番の要因であったとは言い切れないと思われます。

両者は相手に対しどんな感情を持っていたのか

2人が親しい付き合いであったという記録は見当たらず、同僚としての付き合いはあっても、秀吉と前田利家のように私生活まで仲良くするほどの関係ではなかったと考えられます。

前述のように、後から来た光秀が信長に高く評価され、一時は信長も「第一の功臣は光秀」と述べていたほどですから、長く信長に仕えてきた秀吉からすれば、ライバル心がメラメラと燃え上っていたとも思えますね。

光秀も「人たらし」の能力を発揮して周囲の心を掴む秀吉を脅威としていたかもしれません。

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まとめ

2人は、互いをライバルとみなし、同時に脅威に思っていたのではないでしょうか。

実力主義の信長の下で出世していく互いの姿を見て、切磋琢磨していたとも思えます。ただ、光秀の思いがどう変化していったかということだけは推し量れないのですが…。

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xiao

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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