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豊臣秀吉の側室 淀殿は戦国の悪女の代名詞?

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豊臣秀吉の側室で秀頼の母である淀殿。その人物像は、徳川家康に逆らい二度の大阪の陣でついに豊臣家を滅亡の淵に追い込んだヒステリックな悪女、というというイメージで語られることが多いようです。

しかし、実際にそういう人望のない女性だったら、豊臣家の家臣が実質的に淀殿を中心とした体制で豊臣家滅亡まで運命を共にしたでしょうか。
どこかの時点で淀殿と秀頼を切り離し、秀頼を盛り立てて豊臣家の存続を図ろうとしたのではないでしょうか。

織田信長と浅井長政という二名将の血を引く淀殿には、豊臣家家臣をして頼りに思わせる人徳があったように思われるのです。

見逃せない「桐一葉」の影響

こういうイメージと遊女のような「淀君」という名称は、明治37年に初演された坪内逍遙の新歌舞伎「桐一葉」に負うところが大きいようです。

前漢の哲学者・淮南子の「見一葉落、而知歳之将暮、睹瓶中之冰、而知天下之寒」の落葉を、豊臣家の家紋である桐に置き換えて片桐且元が詠んだという「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」の歌を題名に持つ「桐一葉」は、豊臣家の忠臣であった片桐且元を主人公に、豊臣家の行く末を憂う且元が「淀君」に排斥されて遂に主家が滅ぶのを見るという悲劇として描かれています。

しかし、この戯曲は日本で最初のシェイクスピア全集を訳した逍遙が、大坂の陣に関わった人々をシェイクスピア劇の登場人物に仮託して描いたもので、片桐且元はハムレット、淀殿はマクベス夫人の性格を引き継いでいる部分があるのです。
淀殿の性格が悪女の類型として伝えられるのは、「桐一葉」でのマクベス夫人的なキャラクターによるところが大きいでしょう。

とはいえ、「桐一葉」の淀殿は王家を滅亡に導く悪女ではあると同時に、王族にふさわしい品格も兼ね備えるという非常に難しい役で、これを演じるには高い演技力が必要とされます。
そのため、これを演じられる歌舞伎の女方も数少なく、戦後の東京の歌舞伎界では名優を謳われた六代目中村歌右衛門が4回、同じく名優の誉れ高かった七代目尾上梅幸が1回演じただけで、22年間も演じられていない幻の舞台となりつつあります。

淀殿の性格付けに大きな役割を果たした「桐一葉」、上演されることがあったら見逃せない芝居です。

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淀殿の生い立ち

淀殿は北近江を支配する戦国大名浅井長政と、織田信長の妹お市の間に生まれました。

当初は尾張と京都を結ぶ戦略拠点である近江を抑える浅井との戦略結婚として嫁いだお市でしたが、長政との夫婦仲は良好で、茶々、お初、お江の三姉妹を生んでいます。 この長女の茶々こそが後の淀君なのです。

織田と浅井という二つの有力大名の血を引く茶々の人生は、しかし平穏なものではありませんでした。 最初の転機は、叔父である織田信長が浅井長政の同盟者である越前の朝倉家を攻撃したことで訪れます。 これを機に浅井家と織田家は敵対関係になり、茶々が4歳の天正元年、居城小谷城は落城、浅井長政は自刃します。 お市と茶々ら三姉妹は助け出され、伯父である織田信包の庇護を受けることになります。

天正10年、織田信長が本能寺の変に倒れると、お市は織田家の有力な武将であった柴田勝家と再婚。茶々たちを伴って越前北ノ庄城に移ります。 柴田勝家が継父となったことは、茶々の人生にとって第二の転機となります。 その翌年の天正11年、柴田勝家と羽柴秀吉の関係が悪化し、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家とお市は北ノ庄城で自害し、茶々、初、江の三姉妹は敵である秀吉に救い出されます。

茶々は淀殿となった後に大坂城落城で我が子秀頼と運命を共にするわけですが、生涯に三度落城の憂き目に遭い、最初は実父、二回目は継父と実母、三度目は実子と自分自身が命を失うというような苛烈な運命を生きた女性は、淀殿の他にありません。
一種の英雄的生涯だったと言ってもよいのではないでしょうか。

豊臣秀吉との出会い

北ノ庄城落城後の三姉妹は、織田信長の弟で三人には伯父にあたる織田長益、後の織田有楽斎の庇護を受けて成長します。

そして、天正16年に茶々は豊臣秀吉の側室となります。
これは元々、秀吉が茶々の母であるお市に惚れていて、本能寺の変後に関係を持とうとしたが果たせず、お市におもざしの似ている茶々を側室にしたと言われています。

茶々にとって秀吉は、父の長政を攻め滅ぼした織田家の武将というだけでなく、信長の命で義理の兄にあたる長政の長男・万福丸を処刑した仇、母のお市とそして継父の勝家を死に追いやった張本人です。
その側室となることは大きな葛藤があったに違いありませんが、茶々はそれを受け容れ、幼くして亡くなりましたが鶴松、そして秀頼という二人の子をなしています。

今まで正室の高台院(ねね)をはじめ、多くの側女を持ちながら子供ができなかった秀吉に立て続けに二人も男子が生まれたこととから、実は父親は秀吉以外にいるのではなかいかという噂は当時から流れていました。
淀殿に子を生ませた相手と目されたのは、淀殿の乳母であった大蔵卿局の子で、淀殿とは乳兄弟に当たる大野治長でした。講談の「真田軍記」などでは、大坂の陣で真田幸村の寝返りを疑う悪役として描かれることの多い治長ですが、夏の陣の最後に自分の命にかけて秀頼の助命を嘆願した逸話などが、治長実父説の根拠になっているのかもしれません。

それはともあれ、茶々は秀頼の母という立場を利用して、豊臣家の内政を支配するまでになります。
この辺の才覚も、淀殿が単に愚昧な悪女ではないことを示しています。
それは、徳川秀忠に嫁いで三代将軍家光や秀頼の正室千姫の母となり、明正天皇の祖母ともなった妹の江も同じでしょう。
もし浅井三姉妹が男であったら、天下を窺うような武将になっていたかもしれません。

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