豊臣秀吉が行ったこと(刀狩・太閤検地)と後の影響とは!?

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天下統一を成し遂げた秀吉は、色々な政策を実行します。その中でも有名なものに「刀狩」と「太閤検地」があります。これはどういったものなのか、またその目的や影響について考えてみましょう。

太閤検地

検地が実施されるまで、農民は直接領主に直接年貢を納めるのではなく「村」など、その地域の組織に一旦納めてから、年貢を納めていました。領主は豊作・凶作に関係なく毎年決まった年貢を納めさせることが出来て良かったのですが、年貢を束ねる者など様々な利権も発生していたのです。

年貢を納める基準は地方によって違っていたので、秀吉は全国統一の基準を設けるために検地を行いました。

まず、田畑の広さや収穫できる米の量を調べ、それを土地の価値にしました。土地の面積を表示は新しい基準「段歩制」で統一し、米の量を計る枡も「京枡」に統一しました。田畑は米の収穫できる量によって上・中・下に分類され、これを元に大名の領地を表す「石高制」となりましたました。

今も残っている「検地帳」には、土地のランク・広さ・その土地を管理し年貢を納める人の名前も明記されています。

全国の大名に検地の結果を提出させました。その結果、各々の大名の石高が分かる様になり、その石高に合わせた軍役の決定基準になりました。

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刀狩令

1588年の刀狩令で集められた武器は、方広寺の建築のために使われるので、今生だけでなく来世までも救われるという名目のもと、農民が刀・脇差・弓・槍鉄砲などの武具を持つことを禁じました。もし、武器を所持して年貢を納めなかったり、一揆を起こした場合は罰せられるとあります。

この刀狩令により、武士と農民の身分をはっきりと区別し、百姓一揆などを防止し、兵農分離を進めていきました。

肥前では、刀の鑑定が出来る者を派遣して刀を買いに来たふりをして、村人達が持っている刀を記録し、それを元にその記録を元に1万本の以上の刀を没収したとあります。

その後の影響

太閤検地をすることによって土地の所有者が1人になり、これまでの複雑な土地所有となっていた荘園制が消滅しました。領主が直接農民を管理することができる様になりました。また検地帳に記載しているものは百姓と認定され、身分が固定されることによって兵農分離が進みました。

検地による農民の固定化に加えて武器を取り上げられた農民は、さらに田畑から離れにくくなったのです。

刀狩令以前は、庶民も武器を所持していました。刀狩の目的は庶民の武装解除が目的ではなく、武器の使用を規制するためだったといわれています。それまでは、近隣のもめ事は暴力によって解決されることが多く、刀狩と共に武力的なもめ事の解決を全国的に禁止する「喧嘩停止令」も出しています。

また身分制度もはっきりしておらず、農民の蜂起と武士の反乱の区別がはっきりしませんでしたが、刀狩令以降にその区別が明らかになりました。

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