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豊臣秀吉が行った朝鮮出兵失敗の原因と影響

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文禄・慶長の役は文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて行われた豊臣秀吉が主導する遠征軍と、明およびその朝貢国である李氏朝鮮の軍との間で朝鮮半島を舞台にして起こった国際戦争のことで、朝鮮出兵ともいわれます。2度にわたる戦いの末、日本は秀吉の死を期に撤退します。

この朝鮮出兵は、天下統一や大坂城の築城と同様、織田信長の未完のプロジェクトを引き継いだものといわれ、ルイス・フロイスの『日本史』にも、信長が「毛利を平定して、日本六十六ヶ国を支配したら、一大艦隊を編成して、中国を武力で征服する。日本は我が子たちに分かち与える」と自らの構想を語っていたという記述があります。

しかしながら秀吉率いる日本軍は「中国を武力で征服する」ことなく、撤退を余儀なくされます。

なぜ朝鮮出兵は失敗に終わってしまったのでしょうか。また、この朝鮮出兵はその後の豊臣政権にどのような影響を与えたのでしょうか。

失敗の原因

撤退の直接の原因は秀吉の死です。慶長3年(1598)5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追うごとにその病状は悪化していきました。そして8月18日、秀吉の病の原因と噂された京都方広寺に移されていた阿弥陀三尊を信濃善光寺に返すべく京都を出発したところでその生涯を終えました。これを受けて五大老・五奉行が朝鮮からの撤兵を決定、明軍と和議を結び、朝鮮から撤兵しました。その時点で秀吉軍は緒戦に勝利していましたので、決して戦況不利が撤兵の原因ではなかったと考えられます。しかし、秀吉の死から撤兵決定までが短いことを見ると、豊臣政権内でも朝鮮出兵に乗り気ではなかったことが伺えるのです。

彼らが撤兵を決定するその理由を考えてみたいと思います。

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兵糧の不足

最もいわれているのは兵糧の不足です。

兵糧の担当をしていたのは石田三成ですが、不足の原因は三成にはありません。確かに当時の朝鮮半島がかなりの食糧不足で想定していた現地調達が難しかったことも理由の一つですが、最大の理由は、一挙にほぼ全土を占領したため補給線が伸び切ったことです。

さらにその理由をたどると、緒戦の朝鮮軍が想像以上に弱体であったことに加え、指揮系統が実質的にうやむやであったことが挙げられます。

文禄の役で総司令官を務めたのは20歳の宇喜多秀家であり、のちの宇喜多騒動でもわかるように統率力のある人物ではありませんでした。まして彼に従うのは小早川隆景・長宗我部元親・加藤清正・小西行長といった猛将であり、秀家の軍監といて渡海していた黒田官兵衛ですら彼らを統率することができませんでした。

そのため前線はむやみに北上してしまい、各隊の連携はとれず、各部隊の場所が把握しにくいため輸送も困難になったのです。

兵糧不足が三成のせいではなかった証拠に、前線が南部に後退したときには兵糧不足は解決していますし、慶長の役では前線が伸びきらなかったため兵糧不足は起こっていません。

一説では李舜臣の水軍が補給線を寸断したことが兵糧の不足を招いたともいわれていますが、こうした事実はなく、むしろ李舜臣との水上戦の結果、当初輸送のみを行っていた日本水軍の船にも大鉄砲が備付けられることになり、さらに勢力範囲の要所に城砦を築いて大筒や大鉄砲を備えて、水陸併進して活動するようにして警戒するようになります。

この方針転換は有効に機能し、その後の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は、被害を多く出すばかりで成果が上がらなくなり、出撃回数は激減したとされているので、李舜臣の活躍が失敗の原因ではないと考えるのがよいでしょう。

 

不慣れな場所での戦い

朝鮮の海軍は倭寇との戦いで鍛え抜かれた精鋭であったにもかかわらず、秀吉はそれに対する対策をまったくしていませんでした。

大型の戦艦に多数の砲や石火矢を備える明の水軍とは異なり小型の関船や小早船が主力で、火縄銃が主力でした。

そのためあまり大規模ではない朝鮮水軍の朱舜水にも苦戦しています。また、半島の冬は日本よりも厳しく、文禄の役において平壌で大敗を喫した日本軍は、雪を口に含んで飢えをしのぎ、凍結した大河をいくつも渡りながら撤退したため、草履履きの兵の多くが凍傷で足の指を失ったといわれています。

さらに、日本は戦国時代を経てで兵が熟練し、小銃保有数も世界でトップレベルでしたが、鉄砲隊や騎馬隊といった兵科別の編制はなされていませんでした。

集団戦法は小部隊が長槍を揃えて戦う程度で、各武将ごとに混成部隊で編成されているのが基本でした。そのため、都城に立て篭もられると城攻めに手こずり、また一度占領しても明の大砲の前にあっさり撤退しています。

これは日本の城攻めが所謂砦レベルの攻略に過ぎず、大規模都城の攻撃に必要な大砲を始めとする重火器や長梯子の重要性を無視していたためでした。

朝鮮出兵の影響

朝鮮出兵は、この戦争に過大な兵役を課せられた西国大名を疲弊させ、家臣団の分裂や内乱を招き、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となりました。その一方で、徳川家康は諸大名中最大の石高を持ちながら、九州への出陣止まりで朝鮮へ出兵しなかったため、以後隠然たる力を持つようになります。

五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がっていきます。家康の急成長は、石田三成ら豊臣政権存続を図る一派との対立に発展、関ヶ原の戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得て、徳川幕府を創設することになるのです。

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