豊臣秀頼の遺骨はどこにある!? 大坂城で発見されたという話も!

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豊臣秀頼は言わずと知れた豊臣秀吉の息子で、大坂夏の陣で敗れ、母:淀殿と共に自害し非業の最期を遂げました。

戦国時代の武将の場合、首を取られたりしたならばまだしも、自刃した場所が炎上してしまったりすると、遺体どころの話ではなくなってしまいます。秀頼もそうですし、奇しくも秀頼の大伯父:織田信長に関しても同じことが言えます。

では、秀頼の場合はどうだったのでしょうか。誰か遺体を見つけることができたのでしょうか?

豊臣秀頼の最期

1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で徳川家康に敗れ、和議を結んだ豊臣方ですが、大坂城の堀を埋め立てられてしまいました。

そして、召し抱えていた浪人たちの追放や国替えを家康からさらに要求されましたが、今度はそれを拒否し、このことが大坂夏の陣のきっかけとなります。

豊臣方は各地の戦で勝利を収めるには至らず、最終決戦の天王寺・岡山の戦いでの真田幸村の奮戦も空しく力尽き、大坂城へ退却しました。

すでに堀を埋め立てられてしまっていた大坂城は裸同然で、徳川方の突入後まもなく天守閣が炎上します。覚悟を決めた秀頼は、母:淀殿や側近:大野治長らと共に自害し、その短い命を終えたのでした。

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遺骨の行方

秀頼と淀殿らが自害した場所は大坂城の山里丸ですが、遺体が発見されたという記録はありません。そのため、「秀頼生存説」が巷に流布する理由となりました。徳川方ももちろん残党狩りを行いましたが、秀頼らしき人物についての記録は残っていません。やはり、誰も見つけることはできなかったのでしょうか。

ところが、1980年(昭和55年)に大坂城三ノ丸跡にて三人分の頭蓋骨が発掘され、そのひとつが秀頼のものではないかと言われています。

このことは、発掘に立ち会っていた木崎国嘉(きざきくによし)の「秀頼の首」に記されています。鑑定結果は、骨格の発育・生育状況から見ればこの骨が庶民のものではないこと、顎に介錯の痕らしき傷があること、20歳前後の男性であることがわかったそうです。ただ、これが秀頼のものであるとはっきりわかったわけではなく、意見が分かれています。

この骨は京都の清凉寺に埋葬され、首塚が建てられました。

生存説も多方面で

生存説は鹿児島方面に多く、真田幸村と共に落ち延びたという話がわらべうたの歌詞にまで出てきます。遺体が見つからないことは、多くの人々の憶測を呼びました。と同時に、どこかで秀頼の生存を望んでいた人たちがいるということかもしれませんね。

結局のところ、秀頼の遺骨の行方はまだ判明していません。清凉寺に埋められたものが本物であるのか、それともまだどこか土の下に眠っているのか。知りたいけれど、わからない!というのが現在のところです。

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xiao

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歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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