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豊臣秀長の死因はまさかの暗殺!? その首謀者は誰だ!

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秀長がもう少し生きていれば豊臣の滅亡はなかったかもしれない。

後世の人にそこまで言われる豊臣秀長という武将。

兄である豊臣秀吉の絶大な信頼を受け、豊臣政権を支えてきた秀長は天正19年(1591年)1月22日に息を引き取っています。

しかし、病死と言われる彼の死が実は暗殺であったと言われています。その意外な犯人とは一体誰なのでしょうか。

豊臣秀吉の弟にして名補佐役

陽気で機転がきき、人たらしと呼ばれた豊臣秀吉の弟、豊臣秀長は兄とは反対の大人しく温和な性格の人物でした。

秀吉は性格の違うこの弟を随分と可愛がってもいたでしょう。

実際、彼は秀吉の良い補佐役であり、ストッパーでもあったようです。

秀吉が天下人になると大きな実権を与えられ、公儀の事は秀長に相談するようにと秀吉自らが言っていたと伝えられています。

数々の戦にも同行し、秀吉の名代を務めた自慢の弟。

しかし、天正18年に病に臥せってから1年後、彼はあっけなく亡くなってしまいます。

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秀長の死は暗殺!?

秀吉の影のような存在でありながら、絶大な力を持っていた秀長の死には暗殺説があります。

「医学天正記」という本に書かれている症状などから見ると胃腸系のヒ素中毒の可能性があると言うのです。

そして、その犯人とされる人物も何人かあげられています。

まずは兄である秀吉。天下人になった彼が実力者の弟を疎んじてとなるといかにもありそうですが、秀吉は家族を大切にする人で、秀長の事も大切にしていたのでその線は薄そうです。

次に石田三成。彼もまた秀長の権勢を妬んでという理由をつけられそうですが、頭の良い三成にとって秀長が豊臣政権になくてはならない存在である事は明らかだったでしょう。

そうなると後は徳川家康。理由は言うまでにもないですね。しかし、慎重な家康が果たして自分の手を汚すでしょうか。ここで意外な人物が出てきます。

千利休と家康の不穏な関係

公儀の事は秀長にと言われたように秀吉政権において内々を任されていた人物がいます。それが茶人であった千利休です。

秀吉の加護の下、茶の湯を広めた利休は秀長の死後1ヶ月後に秀吉によって切腹を命じられています。それについては娘を秀吉に差し出さなかった、派手好きの秀吉と茶の湯の事で対立したなどと諸説ありますが、当時からしても謎でした。

ですが、それが秀長暗殺を図ったからだとすれば納得がいきます。利休の茶室は2畳の密室で暗殺にはぴったりに見えますし、まさか茶の湯の席で毒を盛られるなど予想もしなかったでしょう。

しかも、不思議な事に秀長の死の2日後に千利休は家康と二人きりで茶会を開いています。

更には千利休の処罰にあたって、徳川家康は彼の助命嘆願や子孫の家督相続の為に奔走しているのです。

しかし、千利休が犯人だったからと言って、何故彼は家康に従ったのでしょうか。秀吉も秀長も利休のパトロンであり、秀長を殺せば自分の身も危ないとは思わなかったのでしょうか。

もしかしたら、利休はそう遠くないうちに自分と秀吉が対立するとは思っていて、せめて家族だけでも助けられたらと家康にすがったのかもしれません。

ですが、彼はそんな表の世界のドロドロとした思惑は一切見せずに命を落としました。

まとめ

結局のところ、秀長の死は今も謎のままですが、彼の死が豊臣政権に大きな打撃を与えたのは間違いありません。

秀長の死後、秀吉は朝鮮出兵に踏み切り、後継者としていた豊臣秀次や千利休の処刑なども相まって豊臣家への不満が高まっていきます。

そう思うと秀長がもう少し長く生きていれば…という嘆きも尤もですね。

Mana

投稿者プロフィール

歴史が好き!!の勢いで突っ走る歴史オタクのライターです。
その時代に生きた人々の文化や偉人達の人間味あふれるエピソードに興味津々。鎌倉や京都、全国の史跡を訪ねつつ温泉や美味しい物を楽しむのが何よりの幸せです。
歴史のオモシロ話を読みやすい文章でお届けできるように頑張ります。

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