関ヶ原の戦いの前哨戦 鳥居元忠が命をかけた伏見城の戦いとは

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1600年7月に起きた伏見城の戦いは、10月に起こった関ヶ原の戦いの前哨戦でした。

伏見城を守るのは鳥居元忠、徳川家康がまだ松平竹千代と名乗り、今川氏の人質だったころから仕えた重臣です。対して、攻めるのは石田三成をはじめとする西軍の大名たち。

兵力差は圧倒的で、誰もが伏見城の落城はあっという間だろうと考えていました。

しかし、ここから元忠の決死の戦いが始まるのです。

なぜ彼は少ない兵力で伏見城にとどまらなくてはならなかったのでしょうか。

その裏にあった当時の情勢などを織り交ぜつつ、詳しく見ていきたいと思います。

元忠が伏見城を守ることになった理由

上杉征伐に至るまで

そもそも、伏見城は豊臣秀吉が晩年に建設した隠居のための城でした。彼はそこで最期を迎えています。

同時に、伏見城は大坂城にも近い重要拠点でした。そして、秀吉は家康に伏見城に入って政務を見てくれるように頼んでいます。そのため、この城は家康にとっても上方ので拠点だったのです。

しかし、秀吉亡き後、情勢は刻々と変化していきます。ついに天下取りへと動き出した家康にとっての大きな対抗勢力になり得る存在が、五大老のひとり上杉景勝(うえすぎかげかつ)でした。彼は部下の直江兼続(なおえかねつぐ)らと共に築城するなど軍事の増強を図っていたのです。

そこで家康は景勝に書状を送り、軍事の増強などの弁明せよと迫りました。しかし上杉側は応じず、家康は上杉征伐を決めたのです。

元忠、伏見城の守りに指名される

家康は上杉征伐に兵力を割きたいと考えていました。しかし、伏見城を空っぽにしていくわけにはいきません。

前述の通り、伏見城は大坂城に近い重要拠点です。また、秀吉が家康に「ここで政務をとってほしい」と遺言した以上、それに背くようなこともできなかったのではと付け加える説もあります。そのため、そこに置くのはそれなりの人物でなければなりませんでした。そこで家康が指名したのが、幼いころからずっと共に行動してきた鳥居元忠だったのです。付き合いが長いからこそ、彼は家康の考えを瞬時に理解できる貴重な家臣だったと考えられます。

また、家康は、自分が伏見を空ければ石田三成を中心とした反家康勢力が兵を挙げると予想していたという説が有力です。そして、伏見城を攻撃されることで家康側からも戦う名分を得られるというふうに考えたというわけです。あえて守りを薄くし相手に攻撃させるという、裏をかく作戦を家康は考えていました。

一方、家康がそこまで考えていなかったという説もあります。三成の挙兵はうっすらと感づいていたようですが、まさか三成が4万もの兵力を集めて攻め込んでくるとは思わずに、兵力が少なくなったとも言われています。

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元忠は死ぬ覚悟でこの命を受けたのか

家康と、伏見城の守りを命ぜられた元忠の会話が江戸幕府の公式記録である「徳川実紀(とくがわじっき)」などに残されています。

二人は酒を酌み交わしながら言葉を交わしたそうです。そこで家康は、多くの兵を伏見城に残していけないことを元忠に謝ります。すると元忠は「天下分け目の大事に、家臣の命など惜しんではなりません。ですから、私たちが命を投げ出すことを痛ましく思ってはなりませんぞ。将来、殿が天下を取るにはたくさんの家臣が必要なのですから、ひとりでも多くを連れて出てください」と答えたそうです。

この言葉を見る限り、元忠はすべてを了承し、わずかな兵と共に伏見城を枕に討死する覚悟ができていたと考えられます。つまり、勝つのではなく、家康が上杉征伐を終えて帰ってくるまでの時間稼ぎをすることが元忠の役割だったのです。捨て駒と言えば聞こえが悪いかもしれませんが、元忠にとっては自分の役割は「名誉ある捨て駒」だったというわけですね。

また、元忠の言葉の通り、伏見城の守りについた主だった武将は元忠を大将として松平家忠(まつだいらいえただ)・松平近正(まつだいらちかまさ)・内藤家長(ないとういえなが)などのみで、徳川の主力武将はみな上杉征伐に投入されたのでした。

伏見城の戦いにおける元忠の奮闘と、その後の関ヶ原本戦への影響

三成、動く

こうして家康は主力を引き連れ上杉征伐へ向かい、伏見城には元忠率いる1800の兵のみ(3000という説もある)となります。

これを見て、当時蟄居中だった石田三成が動き出します。7月17日にまず、秀吉に任命された五奉行のうちの3人増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)らの連盟による「内府ちかひ(違い)の条々」を発し、家康の行状について弾劾しました。その上で、総大将毛利輝元(もうりてるもと)の名で伏見城の引き渡しを求めたのです。

共に城に入っていた木下勝俊(きのしたかつとし:小早川秀秋の実兄)は早々に退去しましたが、もちろん元忠が受け入れるはずもありません。一説には使者を斬りその遺体を送り返したとも言われています。

ひとつだけ残念な事態も起こりました。東軍に加勢するつもりでいた島津義弘(しまづよしひろ)が、元忠に加勢を申し出たのですが、家康と元忠の間で連絡がうまくいってなかったために断ってしまったのです。そして、島津軍は西軍に加担することになってしまいました。「鬼島津」と呼ばれた彼がもし味方にいたら、より戦いを引き延ばせたかなとも思います…。

そして、7月19日に西軍による伏見城攻撃が始まりました。

伏見城の戦い、開戦

西軍の大将は宇喜多秀家(うきたひでいえ)、副将が小早川秀秋(こばやかわひであき)、他に毛利秀元(もうりひでもと)・吉川広家(きっかわひろいえ)・小西行長(こにしゆきなが)・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)・長束正家・鍋島勝茂(なべしまかつしげ)・大谷吉継(おおたによしつぐ)と、錚々たる布陣でした。しかも兵力は4万です。

対する元忠軍はわずか1800、籠城戦とはいえ厳しい状況でした。

ただ、元忠たちは奮戦しました。4万の兵が13日かかっても城内に突入できなかったのですから、その戦いぶりが推測できます。

しかし、城が落ちないことにしびれを切らした西軍側の長束正家は、自身のコネクションを利用して城内にこもる甲賀衆に脅しをかけました。それは、内通しなければ妻子をとらえて磔にするというものだったのです。

甲賀衆は脅しに屈し、伏見城に火をかけました。西軍はついに突入します。

それでも元忠は戦い続けていました。もはやこれまで、と自刃を勧める部下に対し、彼の答えはこうでした。

「私が戦っているのは後世に名を残すためではなく、少しでも敵をここに食い止めて時間を稼ぐためだ。そのためなら雑兵の手にかかっても構わぬ。1人なっても敵を殺して忠義を全うするのだ。自害などせず、命ある限り斬り死にするだけだ」

そして、元忠は西軍の鈴木重朝(すずきしげとも/鈴木孫一:雑賀衆の当主)に討たれ最期を遂げました。

こうして、13日間の攻防戦が幕を閉じたのです。予想以上の粘りを見せた元忠たちは、立派に時間を稼いだのでした。

彼らの奮戦ぶりを語るものとして、彼らの血に染まった畳を家康は江戸城の伏見櫓の階上に置いたそうです。登城した大名たちがそれを見て、元忠らの忠義を偲びました。後にこの畳は鳥居氏の領地となった栃木県下都賀郡壬生町(しもつがぐんみぶまち)の精忠神社(せいちゅうじんじゃ)の脇に埋められ供養されました。

また、血染めの床板は「血天井」として京都の養源院(ようげんいん)、宝泉院(ほうせんいん)、正伝寺(しょうでんじ)、源光庵(げんこうあん)、興聖寺(こうしょうじ)などに使われています。

関ヶ原本戦への影響

伏見城攻略に時間を取られたことで、西軍は美濃・伊勢方面への攻略が遅れたとされています。また、伏見城入城を元忠に断られた島津義弘は、そのまま西軍へ入りました。そして、本戦での退却の際のすさまじい猛攻によって、家康の重臣:井伊直政が重傷を負うことになるのです。

しかしそれよりも、この戦いは決して一枚岩でなかった西軍に亀裂をもたらしたと考えられます。この戦い以後小早川秀秋は病と称して戦場に出なくなり、東軍に内応して本戦の行く末を決する存在となりました。

また、伏見城攻めに参加していた吉川広家もまた東軍に内通することになりましたし、鍋島直茂も本戦のまえに戦線離脱しています。先を読む力のあった武将は、この戦いがただの西軍の勝利というわけでなかったことを感じたのかもしれません。

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まとめ

ただ、家康に伺いを立てずに元忠が開戦したことで、豊臣に従わないという態度を示してしまったということになり、家康に大義名分がなくなったとも言われています。

そして、連絡の不行き届きによって島津義弘が加勢できなくなったりもしましたし、わずかな兵しか残さなかっのたは三成を甘く見ていたからだという指摘もあります。

そのため、家康と元忠の酒宴のエピソードはそれらの不手際をごまかすための作り話ではないかという説もあります。

しかし、元忠の忠義に間違いはないと思います。そして、城を枕に最期を遂げた彼らの命は、結果的に家康の天下統一となって実を結んだわけですから、やっぱり涙を禁じ得ません。

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xiao

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歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
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