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大政奉還の意味をわかりやすく解説

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大政奉還とは、当時の将軍・徳川慶喜による政権の返上のことです。

尊王攘夷運動が高まる中で、将軍自らの白旗ともとれるこの出来事ですが、なぜ慶喜は大政奉還へと踏み切ったのでしょうか。

またこのことは慶喜や徳川家にどのような利点をもたらしたのでしょうか。

徳川家を守る秘策!

自ら負けを認め、白旗を振ったかのように見える大政奉還ですが、実はこのことで徳川家は滅亡を逃れたとみることができるのです。

その理由は、当初考えられていた大政奉還後の政権の在り方です。

大政奉還を慶喜に上奏したのは土佐藩の前藩主・山内豊信(容堂)です。

しかし、この大政奉還という考えを思いついたのは別の人物。坂本龍馬でした。

龍馬は大政奉還後は天皇の下、新たに議会を設けて話し合いにより政治を行うという政治体制を構想していました。

そして、その議会で「盟主」、つまりリーダーとなる人物について、龍馬は徳川慶喜をと考えていたという説があるのです。

つまり、当初坂本龍馬が構想した大政奉還は、(龍馬がそれを意図していたかはわかりませんが)討幕派から徳川家を守り、平和裏に新時代を迎えようとするものだったことがわかります。

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絶妙なタイミングでの上奏

土佐藩らからの上奏を受け、慶喜が大政奉還を上奏したのは慶応3年10月14日のことです。

ですが、この直前、薩摩藩と長州藩には討幕の密勅が下されていたのです。

いざ討幕と思い、行動を起こそうとした討幕派の出鼻をくじくタイミングでの上奏でした。

翌15日に朝廷は大政奉還を受理。これにより討幕の実行は延期ということになりました。

もし少しでも遅れていれば、大義名分を背負った討幕派によって徳川家は滅亡に追い込まれていた可能性があったのです。

慶喜は諦めていなかった!

こうして見ていくと、慶喜の天をも味方にしたかのような政治的戦略が大政奉還だったことがわかります。

実際、慶喜は大政奉還の際、形式的には政権を返上しても実質的には徳川家が政治を主導する立場にあり続けられると考えていたようです。

そして、それは慶喜の想像にとどまらず、実際に大政奉還後も引き続き内政・外交共に江戸幕府に委任されることとなりました。

当時の朝廷といえば、孝明天皇の崩御を受け、満15歳と若年な明治天皇が即位したばかりでした。さらにそれを支えた公家たちも親幕派で、討幕派の公家である三条実美らは追放されたままという状態だったのです。

一見すると白旗を挙げたかのように見える大政奉還が、実は徳川家が生き延びる最後の手段だったことがわかってきます。

しかし、これが一転、形勢が逆転する出来事が、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争でした。

鳥羽伏見の戦いで錦の御旗が薩長側にはためいた時、慶喜は突如自分が朝敵となったことに動揺し、戦線を突然離脱するという大将にあるまじき行為に及んでしまったのです。

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