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徳川家康と朝日姫 二人が結婚に至ったのはやっぱり人質!?

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戦国武将の例に倣って、徳川家康にはたくさんの妻がいました。

最初の正室・築山殿(つきやまどの)が亡くなった後、次の正室になった朝日姫とは、豊臣秀吉の妹だったのです。

しかし、なぜ秀吉の妹が家康に嫁ぐことになったのでしょう?

そこに至るまでの背景や2人の夫婦仲など、いろいろ検証してみましょう。

秀吉の妹:朝日姫と再婚したわけ

秀吉の台頭と小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い

1582年の本能寺の変で信長が討たれた後、秀吉は信長の長男:信忠の息子である三法師とその後見である二男:信雄(のぶかつ)を擁し、信長の三男:信孝を擁した柴田勝家を賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破りました。これにより秀吉は信長亡き後の織田政権下で台頭してきます。

ところが、秀吉と信雄の関係は悪化し、秀吉が信雄を安土城から追い出してしまいます。このため、信雄は家康の方へと接近しし同盟関係を結びました。

さらに、信雄は秀吉に内通したという疑いにより自身の家老であった津川義冬(つがわよしふゆ)・岡田重孝(おかだしげたか)・浅井長時(あざいながとき)を処刑してしまいます。彼らはすでに秀吉に懐柔されていたとも、秀吉が「3人は秀吉側に寝返った」というデマを流していたとも言われています。

これに怒りつつも契機とみた秀吉は、信雄に対する兵を挙げました。信雄と同盟関係にあった家康も、当然秀吉の敵となります。これが、1584年の小牧・長久手の戦いです。

小牧・長久手の戦いの後

戦が始まったとはいっても、秀吉と家康の主力が激突するような戦いは起きず、各地で各勢力同士が衝突を繰り返していました。そのため戦い自体に劇的な進展がないまま時が過ぎ、秀吉は交渉の結果信雄と単独講和を結んだのです。

信雄が講和してしまった以上、家康に戦を続ける理由はありません。彼は本国三河に帰り、二男の於義丸(おぎまる・後の結城秀康)を秀吉の養子とすることで和睦を結びました。

その後、関白となり豊臣政権を確立した秀吉は、家康を何とか懐柔しようとします。このとき家康はまだ上洛しておらず、つまりまだ秀吉に臣従しますという意思表示をはっきりとしていませんでした。秀吉としては、最も大きな対抗勢力である家康を何としても上洛させて、自分の力を全国の大名たちにも知らしめたかったのです。

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秀吉の「家康懐柔作戦」

そこで秀吉は、家康に正室がいないことに目をつけました。家康の正室だった築山殿はかなり前に亡くなっていたのです。

秀吉には、朝日姫という妹がいました。異父妹とも同父妹とも言われています。しかし彼女はこのとき結婚していました。その相手は、佐治日向守(さじひゅうがのかみ)とも、彼が亡くなった後に副田吉成(そえだよしなり)に嫁いだとも言われています。このあたりのことははっきりしていませんが、結婚していたことは確かだったようです。

秀吉は朝日姫を離婚させ、家康に嫁がせることにしました。まず、信雄の家臣・土方雄久(ひじかたかつひさ)を使者として三河に派遣し、家康の側近中の側近・酒井忠次(さかいただつぐ)を経由して縁談の話をしました。秀吉からの話では家康も断れなかったでしょうし、側近の酒井忠次を通してでは嫌とも言えなかったことでしょう。

こうして、家康と朝日姫の縁談がまとまりました。結納には、これも家康の側近・榊原康政(さかきばらやすまさ)が代理として赴きました。

ところで、朝日姫の夫はどうなったのかというと…副田吉成は、剃髪したとも自殺したとも伝わっています。本当に気の毒な話ですね。

結婚当時の2人の年齢

1586年5月に朝日姫は京都を発ち、三河の家康の元へ輿入れしました。このとき家康は45歳、朝日姫は44歳でした(数え年)。

当時の結婚は10代でするのが一般的でしたから、この結婚がちょっと普通でなかったこと、明らかな政略結婚だったことがわかります。結婚であり、人質だったわけです。

輿入れした後の朝日姫は、駿府御前(すんぷごぜん)と呼ばれました。

夫婦仲はどうだったのか

40代半ばに差し掛かっていた2人に子供はできませんでした。

加えて、朝日姫を迎えてもなお家康は上洛しませんでした。そのため、秀吉は今度は実母の大政所(おおまんどころ)まで家康の元に送ってよこしたのです。これも人質としてでした。ここに至って、ようやく家康は上洛し、秀吉への臣従を誓ったのです。

妹に実母までよこされては、家康の気持ちとしてはかなり冷めただろうと考えられます。やはり、形式上の結婚という側面が強く、家康は朝日姫を丁重に扱ったようですが、仲睦まじい夫婦というわけではなかったようです。それに、家康は生涯で20人近くの側室を持っていたので、そちらを訪れる方が忙しかったに違いありません。

それを裏付けるかのように、1588年にすでに京都の邸宅・聚楽第(じゅらくてい)に戻った大政所の見舞いとして朝日姫は京都に行き、そのまま戻らずに1590年に病没しました。一方、一度は戻ってきたものの、また京都を訪れてそこで死去したとも伝わっています。

わずか4年の結婚生活でしたが、一緒にいた期間はきわめて短かったことでしょう。後半は別居状態だったと考えられます。

家康は彼女を京都の東福寺(とうふくじ)に葬りました。ここは徳川氏の菩提寺であり、家康は彼女を供養するにあたり南明院(なんめいいん)という塔頭(たっちゅう:寺院の中に建てる小さな院)を建てています。

また、駿河の泰雲山瑞龍寺(たいうんざんずいりゅうじ)にも彼女の墓を建て、菩提を弔いました。

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まとめ

家康と朝日姫の結婚は決して幸せなものではなく、一方的に朝日姫が気の毒に思えます。

家康が彼女を手厚く供養したのは、辛い思いをさせてしまった彼女へのせめてもの謝罪だったのかもしれません。

xiao

投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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