徳川家康 本能寺の変勃発時の状況と領国三河への道中記

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本能寺の変と言えば主役は明智光秀と織田信長ですね。

そして、信長が討たれた後の豊臣秀吉(当時は羽柴)の動きの速さは「中国大返し」と呼ばれて有名です。

ところで、徳川家康は何をしていたのでしょう?

実は、本能寺の変は家康にとっても大ピンチの出来事だったのです。

本能寺の変が起きたときの徳川家康

本能寺の変が起きたとき、家康はずばり堺(大阪府堺市)にいました。

ちょうど武田氏を滅ぼして甲州征伐が終結し、家康は駿河国を信長から与えられました。そのお礼言上にと、彼は信長を訪問して安土城へやって来たのです。

この時、武田側でありながら信長に内応した穴山梅雪(あなやまばいせつ)も一緒でした。しかし、お礼を言うための旅だったので、お供の家臣たちは34人と本当に僅かだったのです。

その中には徳川四天王である酒井忠次(さかいただつぐ)・本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原康政(さかきばらやすまさ)・井伊直政(いいなおまさ)らが含まれていました。

安土城にやって来た家康を信長はもてなします。饗応役には明智光秀が指名され、彼は家康の接待に当たります。

ですが、なぜか今度は中国地方で毛利氏を攻めている秀吉の援軍に向かうようにと命ぜられたため国へ戻り、家康の接待役は丹羽長秀(にわながひで)、堀秀政(ほりひでまさ)、長谷川秀一(はせがわひでかず)、菅屋長頼(すがやながより)に代わりました。

そして、信長は家康と梅雪にゆっくりと京都や大坂を見て行ったらいいとすすめます。案内役には長谷川秀一が任命されました。そこで、家康は家臣たちと共に堺見物へ向かったのです。

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本能寺の変、勃発!

堺に着いた家康は、堺の代官である松井友閑(まついゆうかん)や堺の豪商:津田宗及(つだそうぎゅう)らの茶会に招かれていました。本当に、観光旅行の雰囲気だったのでしょうね。

ところが、そこに本能寺の変が勃発し信長が討たれたとの報が入ります。家康の饗応役を解任され、秀吉の援軍として派遣されたはずの明智光秀は、国に帰って軍備を整えた後、本能寺へと攻め入ったのでした。

どこで家康がこれを知ったかはいくつか説があり、家康に先行して京都へ向かっていた本多忠勝が、京都から信長死すの報を携えた豪商:茶屋四郎二郎(ちゃやしろうじろう)に出会ったために知ることができたとも言われています。

家康は自分がとんでもない窮地に追い込まれたことをすぐに悟りました。

信長、信長の息子:信忠が死に、京都は明智の勢力下に入ってしまっています。京都に近い堺には、すぐに追っ手がやって来ることでしょう。

そして、周辺の農民や雑兵による武者狩りも始まるはずです。それなのに、家康にはわずかな供しかいなかったのです。いくら徳川四天王がいても、多勢に無勢です。周辺諸国は織田方の武将の領地でしたが、この混乱した情勢では、家康を保護してもらえる保障もありません。

家康は絶望しました。そこで、京都にある松平氏ゆかりの寺:知恩院(ちおんいん)で切腹すると言い出したのです。

それを止めたのは、四天王のひとり本多忠勝でした。

彼の説得により、家康は思いとどまります。そして、領地の三河に戻ることを決意しました。

しかし、この少人数でいったいどうやって戻るというのでしょうか。

領国三河へ

家康一行には土地勘がありません。そこで、堺の案内役になっていた長谷川秀一が、三河へと戻るルートを説明し、なおかつ随行を申し出ました。

かつ、彼は一行が訪れるであろう先の領主に事情を説明して家康の逃避行を手助けし、護衛の手配も行ってくれたのです。

そして、家康は三河への帰還の旅に出たのです。堺から家康の居城である岡崎城までは、200km以上ありました。

では、家康は堺を出て、先行していた本多忠勝が戻ってきたところで出会ったという説を取り、その場所である飯盛山(いいもりやま:大阪府四條畷市・しじょうなわて)からスタートすることにしましょう。

一行は山城国宇治田原(京都府宇治田原町)に入りました。宇治田原城主の山口甚介(やまぐちじんすけ)は、あらかじめ長谷川秀一が書状を送り事情説明していたおかげで、城内へ一行を迎えてくれます。

次に向かったのは近江国(滋賀県)です。そこの甲賀小川村の領主にして山口甚介の実父:多羅尾光俊(たらおみつとし)もまた家康を助け、護衛をつけてくれました。

だんだんと護衛が増えてきた家康一行、次は伊賀国(三重県)に入ります。ここから山道を行かなければならず、相変わらず厳しい道中が続きました。滋賀と三重の県境付近の御斎峠(おとぎとうげ)を越える際には、家康の部下:服部正成(はっとりまさなり)の力が大きかったと言われています。

服部正成は、あの忍者の血を引く2代目服部半蔵なんですね。正成自身はすでに武士だったとされていますが、伊賀忍者の流れを汲む彼がいたために、伊賀・甲賀両方の土豪の配下が集まり一行を守ってくれたというのです。

一行はついに最大の難所・加太峠(かぶととうげ:三重県亀山市)に辿り着きます。ここは山賊の住処であり大変危険な場所でした。しかし、家康に従う護衛はさらに増え、伊賀・甲賀の忍者衆もいます。そのため、ここも切り抜けることができました。

難所をやり過ごした一行の前には、伊勢湾が広がっていました。ようやく彼らは伊勢の白子浜(しろこはま:三重県鈴鹿市)に到着したのです。ここから船に乗って対岸の知多半島(ちたはんとう)に着けば、岡崎はもうすぐです。

伊勢商人・角屋七郎二郎(かどやしちろうじろう)の協力で手配された船に乗った一行は、ようやく領内に入ることができ、三河国大浜(おおはま:愛知県碧南市)に上陸します。家康の家臣:松平家忠(まつだいらいえただ)が迎えに来ており、こうして家康は岡崎城に帰り着いたのでした。

この一連の逃避行を、「神君(しんくん)伊賀越え」と呼びます。神君とは、江戸時代以降はもっぱら家康を指しました。

残念なことは、途中までは一緒にいた穴山梅雪が、別行動を取って横死してしまったことです。最期の様子は明らかではありませんが、農民一揆にやられたとも、自害したとも伝わっています。

ともかく、家康の伊賀越えには、多くの人々の助けがありました。

堺での案内役だった長谷川秀一は、結局尾張熱田(おわりあつた:愛知県熱田市)まで同行しました。

信長の訃報を知らせた京都の豪商:茶屋四郎二郎は家康に随行し、各地で銀子をばらまき安全をお金で保障する働きをしています。このため、彼は以後家康の御用商人に取り立てられました。

伊勢の角屋七郎二郎も家康に取り立てられ、廻船自由(かいせんじゆう)という全国どこの港にも出入り自由という特権を与えられます。そして朱印船貿易も始めました。

服部正成のはたらきかけで集まった伊賀・甲賀の人々は、家康に仕えるようになっています。

このとき、助け合いながら道中を共にした人々は、家康にとっても終生大事な存在になったことでしょう。

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まとめ

家康がわずか34人の供だけで安土城を訪れたというのは驚きですが、それこそ、本能寺の変のようなことが起こるとは誰も想像していなかったからなのでしょう。

そして、苦難の伊賀越えの次には秀吉に臣従する時代がやって来るわけです。

家康の我慢の時代はまだまだ続きますが、それもまた、最後に江戸幕府初代将軍となり花開くまでの布石だったのかなと思ったりもします。

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xiao

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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