徳川家康に兄弟はいた!? あまり名を聞かない天下人家康の兄弟徹底解剖!

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徳川家康に兄弟がいるイメージって、あまりないような気がしませんか?

小さなころに今川氏の人質になったせいか、一人っ子のような気がしてしまうんです。

しかし、家康にもちゃんと兄弟がいました。

どんな人たちだったのか、見ていくことにしましょう。

戦国武将には側室が多い! 家康にも異母兄弟などがいた!?

当時の戦国武将は、正室の他に側室を何人も持つのは普通のことでした。そのため、異母兄弟はたくさんいたのですね。

現代とは違い、医療が未発達で寿命も短かったため、家を残すためには多くの子孫が必要だったのです。

兄弟が多いことは家督争いの種となったりもしましたが、反対に、一族の団結にもつながったりしました。

徳川家康の父:松平広忠(まつだいらひろただ)は、正室の於大(おだい)の方との間に家康をもうけました。しかし、於大の実家である水野氏当主・水野信元(みずののぶもと:於大の兄)が織田氏と同盟を結んだため、当時織田氏と敵対関係にある今川氏の傘下にあった松平広忠は、於大を離縁しなくてはならなくなったのです。家康はわずか3歳で母と生き別れることになってしまいました。

当然、広忠は正室を新たに迎えます。それが三河の武将・戸田康光(とだやすみつ)の娘・真喜姫(まきひめ)でした。この他にも、広忠には何人かの側室がいたようです。ただ、広忠は24歳で亡くなってしまったため、子供の数は男女合わせても10人を超えませんでした。

また、離縁された母:於大は尾張国の領主・久松俊勝(ひさまつとしかつ)と再縁し、そこで子供をもうけています。

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家康の兄弟

実は、家康の異母兄弟に関しては謎が多いのです。架空であるとか、一説には兄弟であるとかといったものがあるのですが、伝わっているものをご紹介します。

【異母兄弟たち】

松平家元(まつだいらいえもと) 1548-1603 父:松平広忠、母:御湯殿(おゆどの・湯浴みを手伝う仕事)方女中?

生まれてすぐに父:広忠が亡くなったため、事情を知らせる時間がなく、家康と兄弟の名乗りができずにいたそうです。後にその生母が家康に対して広忠から下賜された脇差を差し出し、兄弟と認められました。

しかし、病弱で足が悪く、人前に出ることなく亡くなったとされています。

ただ、彼の場合、家康の同母弟にあたる松平康元(まつだいらやすもと)と没年月日(1603年8月14日)が同じであったり、同じく同母弟の松平康俊(まつだいらやすとし)が足を悪くしていたという事実があったりと、実在した人物であるかどうかが疑わしい点があります。

このことは「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」という徳川家創業の歴史を綴った江戸幕府編纂の史書で指摘されており、もしかすると松平家元は存在しない人物なのかもしれません。

内藤信成(ないとうのぶなり) 1545-1612 父:松平広忠?、母:内藤氏娘?

彼の場合も、一説によると家康の異母弟ではないかと伝わっています。

信成の母は広忠の侍女で、その子を身ごもるもそのまま他家に嫁ぎ出産しました。これを知った広忠の部下・内藤清長(おそらく信成の母の一族だったと思われる)が信成を引き取り養子としたのです。

信成は成長すると家康の側近として仕え、武田氏との三方が原の戦いや豊臣秀吉との小牧・長久手の戦い、北条氏の小田原攻めなど、多くの戦いで活躍しました。

松平忠政(まつだいらただまさ) 1541-1599? 父:松平広忠、母:於久の方

家康の異母兄にあたるようですが、彼についても詳細ははっきりとしていません。

大名や旗本の家譜で、江戸時代に編纂された「寛政譜(かんせいふ)」によると、広忠が於大を妻とした時に、生母の於久は忠政を連れて近郊の桑谷村(くわがいむら)に移り住んだということで、そこで育ったのでしょう。後に家康に仕え、従五位下の位を得たそうです。

樵臆恵最(しょうおくえさい) 生没年不詳 父:松平広忠、母:於久の方

恵最は、前述の松平忠政の同母弟になります。生母の於久が桑谷村に移ってから生まれたそうですが、家康と同年ではないかと伝わっています。

1562年に家康が今川義元から独立した時、岡崎で於久と共に家康と面会します。そこで彼らは広忠の菩提を弔うことを願い出て、家康の許しを得て寺を建て、恵最はそこの住職となりました。この寺が瑞雲山広忠寺(ずいうんさんこうちゅうじ)と言い、現在も愛知県岡崎市に残っています。

市場姫(いちばひめ) ?-1593 父:松平広忠、母:真喜姫

広忠が家康の生母・於大と離縁後に迎えた正室:真喜姫の娘です。

はじめは三河の豪族・荒川義広(あらかわよしひろ)に嫁ぎましたが、夫:義広が三河の一向一揆で家康に敵対する側に回ったため、離縁したようです。

その後は、秀吉の臣下として活躍した筒井定次(つついさだつぐ)に嫁いだとも言われています。

【異父兄弟たち】

松平康元(まつだいらやすもと) 1552-1603 父:久松俊勝、母:於大の方

家康の生母:於大は、離縁後に久松俊勝に嫁いだため、父の違う弟たちが生まれています。また、久松俊勝は家康に与したため、母を同じくする彼らは交流がありました。

康元は幼いうちに家康に会っており、松平姓を下賜されています。その後は家康に従い、北条氏の小田原城落城後の守備役となったり、関ヶ原の戦いの折には家康の代理として江戸城の留守役を命じられています。

彼には娘が多くいましたが、そのほとんどは家康の養女となり、徳川氏と他の大名との姻戚関係を築くべく政略結婚させられました。

松平康俊(まつだいらやすとし) 1552-1586 父:久松俊勝、母:於大の方

康俊は、幼少時に家康の命令で今川氏真(いまがわうじざね)の人質となり、駿河へ行っています。ところがここに武田信玄が攻めてきたため、今度は信玄の本拠地・甲斐に送られてしまいます。

その後、1570年に何とか甲斐から逃れることができましたが、その逃亡のさなか、康俊は両足指を凍傷で失ってしまいました。

1583年には駿河の久能城(くのうじょう)を与えられましたが、間もなく亡くなっています。

松平定勝(まつだいらさだかつ) 1560-1624 父:久松俊勝、母:於大の方

康元・康俊と同様、家康から松平姓を下賜された定勝は、小牧・長久手の戦いや長篠の戦いなどに従軍しました。

実は、秀吉から羽柴氏の養子にと求められたのですが実現はしませんでした。これは、母の於大が自分の子がすべて手元を離れることに同意しなかったためで、離縁したとはいっても家康が実母を重く見ていたことがわかります。

定勝は、家康にとっては17歳も年の離れた弟でしたが、有能な側近でもありました。

家康の死の際には、後継ぎの秀忠の相談役にと求められたと伝えられています。また、実際に秀忠も彼を尊敬し、重用しました。

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まとめ

ここに挙げた兄弟は8人ですが、正確な数となると、増えることもあるかもしれませんね。

不思議なのは、有能と言えたのは末弟の松平定勝だけで、他には才ある兄弟はいなかったようです。

もっとも、天下を取るほどの人間にとっては、有能すぎる兄弟がいなかったことは逆にプラスだったのかもしれません。

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xiao

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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