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大坂冬の陣で西軍を震え上がらせた大砲はどんなものだった?

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真田丸の戦いで東軍の前線部隊が敗退すると、焦った秀忠は父・家康に総攻撃を提案します。

これに対し家康は「戦わずに勝つことを考えよ」と秀忠を叱り戒め、次の策に出ました。

それが、包囲したまま激しい砲撃を仕掛け、重圧をかけつつ、ひとまず和睦に持ち込むというものだったのです。

その時に活躍したのが大砲や大筒です。

大坂冬の陣で用いられた大砲とはどんなものだったのでしょうか。

北方に100門の大筒

慶長19年(1614)12月16日から家康は大阪城の南側だけでなく全軍に一斉砲撃を命じました。

この四方からの砲撃の中で特に激しい砲撃が行われたのが、北方の備前島からのものでした。

備前島というのは現在の都島区網島町あたりのことで、石田三成や宇喜多秀家などの大坂屋敷があった場所です。

家康はここに100門もの大筒を置き、大阪城を砲撃しました。

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外国製の大砲も

徳川軍が使用した大砲・大筒のほとんどが国産のものでしたが、最新式の外国製の大砲も含まれていました。

  • カルバリン砲 家康が大坂の役に備えてイギリスから4門購入。鋼鉄製。射程6300m。
  • セーカー砲 大坂の役に備えてイギリスから1門購入。カルバリン砲以上の射程距離。
  • オランダ製4・5貫目の大砲 冬の陣の1週間前にオランダから到着した大砲12門。半カノン砲に相当。
  • 芝辻長左衛門作の国産大筒 摂州・堺の職人。口径51mmの大筒。爆発せず、鉛玉を飛ばすだけだったので火力は低い。轟音を響かせた。

これに対し、西軍が用いたフランキ砲は、日本に初めて伝えられた大砲といわれるもので、ガス漏れで事故が多発し、その上威力も低く、ゆえに射程距離も短いものでした。

砲撃が和議を引き寄せた

最新式の大砲による砲撃は大阪城の本丸にも届き、御殿に命中、淀殿の侍女8名が死亡してしまいます。

このことで当時の事実上の豊臣家の最高権力者であった淀殿を動かし、和議の話がいっきに進むこととなりました。

家康の作戦が見事功を奏したのです。

しかし、豊臣側からの和議申し出以降も家康は砲撃をやめることはありませんでした。

少しでも有利な条件で和議を結ぶためです。

秀頼も淀殿も落城まで城外に一歩たりとも出なかったといわれているように、「難攻不落の大阪城に籠れば小細工など使わずとも敵を退けられる」という考えが当時の豊臣側にはあったのでしょう。

しかし、砲撃が城内に届くのであれば話は別です。

籠っていても砲撃に当たって死ぬ可能性がある。そのことに気づき、おそれおののいたのでしょう。何とも情けない話です。

真田丸で果敢に戦い、戦果を上げた幸村はこうした淀殿の動きをどう思ったでしょうか。

なにはともあれ高性能な大砲を外国から取り寄せたことが徳川側の冬の陣の勝因となったのです。

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