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武田信玄と徳川家康は親子の関係にあった!?

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甲斐(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄と三河(現在の愛知県)の戦国大名・徳川家康。二人は桶狭間の戦い後、旧今川領となった駿河を巡り対立しました。

武田軍と直接刃を交えることとなった三方原の戦いで家康は武田軍の進撃に怯え、馬上で漏らしながら居城である浜松城まで逃げ帰ったと伝えられています。

この出来事は後に「家康三大危機」に数えられることとなりました。

そんな二人には親子だったのではないかとする説が存在します。一体何を理由にこうした説が出てきたのでしょうか。

信玄・家康親子説の論拠

1 武田家を再興している

1582年に織田信長・家康連合軍による甲州征伐で武田家が滅亡すると、家康は信玄の家臣・穴山信君の嫡子・穴山勝千代に武田氏を再興させようとしましたが、16歳で早世してしまっています。

そのため、家康は再び信玄の家臣・秋山虎泰の娘・下山殿との子である五男・信吉に武田の姓を名乗らせ、武田家を再興させました。

このように家康は武田家の再興にこだわっているように見えます。

2 甲斐善光寺に家康の母の念持仏と家康の位牌がある

甲斐善光寺は信玄が建立した寺院ですが、ここに家康の母・於大の方が子を授かれるようにと祈願をした秘仏・峯薬師像があるのです。

そしてその祈願が成就して誕生したのが家康であると伝えられているそうです。さらに、この寺には信玄の位牌と家康の位牌が収められているのです。

3 於大の方の空白の四年

家康の母・於大の方には1544年ころから1547年ころまで空白の4年間が存在します。

そしてその同時期に信玄は名前が明らかではない側室を迎えています。信玄の家臣が記した『甲陽日記』には「袮津から来た御両人と祝言をあげられた」と記してあります。

4 家康は松平家の血を継いでいない?

史実では家康は三河の小大名・松平家の世継ぎとして誕生したとされています。

ところが明治35年に発刊された村岡素一郎著『史疑 徳川家康事蹟』では家康の実父は「下野国都賀郡小野寺村出身の江田松本坊」、「松本坊は新田の系統」と記されているのです。

新田氏の本姓は「源氏」であり、信玄の武田氏も「源氏」を本姓としています。

5 久能山東照宮は信玄の久能城跡地

家康の遺体が葬られていることで知られている久能山東照宮は、元々信玄が久能城を築城した場所でもあります。

家康は生前この久能の地を「駿府城の中の本丸と思う」というくらい重要視していたといわれています。

6 世良田東照宮にある「花菱」

日光東照宮と久能山東照宮の二つを直線で結んだところに位置する世良田東照宮の建物は、家康が亡くなった時に日光に建てられたものを移築したものといわれています。

そして、この本殿の梁には徳川氏の「葵紋」を支えるように武田氏の「花菱」が描かれています。

この「花菱」は信玄自身を象徴するものとして「風林火山」の旗とともに戦で掲げられたものです。

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7 人相が似ている

観相学の観点から二人の肖像を見ると、目・鼻・口が類似しているといわれています。

8 筆跡が似ている

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信玄・家康親子説の真相は

上に挙げた信玄・家康親子説の論拠3・4の前提には、家康影武者説があります。つまり、ここで信玄と親子とされているのは、松平家の嫡男・竹千代として生まれた人物ではなく、その生涯のどこかの時点でこの竹千代と入れ替わり、大御所として江戸幕府の政治を担った人物のことということです。

そもそも、1543年生まれの家康が、1544年から信玄の側室となった人物の子であるはずがありません。

また、『高白斎記』に祢津元直の娘が信玄に嫁ぎ、「袮津御寮人」と呼ばれたと記されていますので、信玄・家康親子説を唱え、その母を祢津御両人であると推定するなら、この『高白斎記』の記載さえも虚偽であるとしなければならないでしょう。

さらに言えば、武田家再興の願いを担った家康の5男・信吉は1603年に21歳の若さで亡くなっていますが、家康はその後再び後継をたてることなく、武田氏は断絶しています。

もし武田氏の再興に家康が強いこだわりをもっていたのであれば、次の後継をたてるでしょう。そもそも、信玄を尊敬していたとされる家康が、武田氏の断絶を惜しんだのは親子なんて関係がなくても極々普通の事のように思えます。

こうしたお家断絶を惜しみ、血縁から名乗らせることはこの時代よくあったことで、黒田官兵衛も黒田家の重臣・母里家の断絶を惜しみ、その縁者だった太兵衛に名乗らせていますが、決して官兵衛が母里家と親子関係にあったりはしないのです。

1で触れた峯薬師像ですが、これは元々甲府善光寺にあったものではなく、信玄が現在の愛知県新城市にある鳳来寺から、霊験あらたかと知られていた峯薬師像を持ち帰ったものです。

つまり、家康の母が子授けの祈願をした時は信玄の甲府にあったのではなく、松平氏の三河にあったのです。

花菱の紋に関してはもう少し検証してみてもいいかもしれませんが、日本の神社には花菱を紋とする神社はいくつもあり、花菱があったから「信玄」というのは短絡的かと思います。

こうやって一つ一つ考証してみると、どれも「信玄・家康親子説」を立証するために探された根拠であり、客観的な立場に立ったものではないといわざるを得ないでしょう。

戦国大名として名を馳せ、信長をも恐れさせ、地の利さえ味方すれば天下統一を成し遂げられたと言われる武田信玄。彼の落とし胤が実は天下を統一していた・・・というのは確かに歴史ロマンですが、実際はかなり可能性は低いようです。

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