徳川家康と石田三成は不仲だったのか!?

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慶長5年(1600)9月15日、美濃関ヶ原で、徳川家康の東軍と石田三成を中心とする西軍とが天下を争い戦いました。これが「天下分け目の戦い」とも呼ばれる関ケ原の戦いです。この二人は古くから不仲であったと言われてきました。二人は本当に不仲だったのでしょうか。そうだとすればそればいつ頃からなのでしょうか。

二人が不仲となったきっかけ

三成が家康と敵対するようになるのは早くても秀吉死後と考えられます。

秀吉の死後、内大臣であった家康が朝廷の官位でトップとなり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言受けていたため、五大老筆頭と目され、家康に接近する大名が増えだしました。

この頃から家康は豊臣政権下で禁止されていた大名家同士の婚姻禁止の法度を破り、有力大名と姻戚関係を結び始めます。慶長4年(1599)、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣しました。

家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟り、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦しています。また利家死後、家康は自分以外の大老を帰国させ、兵を率いて大坂城西の丸に入って秀頼を掌中に収め、秀吉の遺命であった五大老・五奉行による合議体制を崩して豊臣家から政権を奪おうという動きを見せ始めました。

こうした豊臣秀頼をないがしろにする行為に対し、三成らが反感を覚えたことは間違いないでしょう。

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二人は不仲だったのか?

三成は家康を早くから警戒して平素から嫌っていたと思われがちですが、両者の間には互いを認め合うエピソードも残されています。

秀吉による朝鮮出兵の際、朝鮮人儒学者・姜沆が捕虜として連れてこられました。彼は処刑を免れ、藤原惺窩らの日本人儒学者と交流して帰国し、帰国後に「看羊録」という書物を刊行しています。

その書物によると、三成襲撃事件の主犯と目された加藤清正が、同事件で家康が三成を庇った事に対して反感を募らせ、家康の討伐を画策したとされているのです。

三成襲撃事件の発端は、秀吉死後の豊臣政権内において七将をはじめとする武断派と、石田三成ら行政を担当する文治派の対立が表面化したことです。

五大老の一人前田利家はこのどちらにも属さず二派の調停に努めていましたが、慶長5年(1599)に死去。以後両派の関係を仲裁するものはいなくなってしまいます。

朝鮮出兵における蔚山城の戦いの査定などで、以前から三成に深い恨みを抱いていた武断派は、三成襲撃を計画します。しかし三成は事前にそれを察知、京都の伏見城に立て篭もり、伏見城下で政務を執っていた徳川家康の仲介で難を免れました。

七将は三成を引き渡すように要求しましたが、家康はこれをはねつけ、その代わりに三成を隠居させる事、及び蔚山城の戦いの査定の見直しする事を約束し、三成を居城・佐和山城に送り届けさせました。

あくまで真偽は不明ですが、この後七将による家康討伐事件を察知した三成は詳細を家康に伝え、家康の命に従って佐和山で出陣の準備をしていたともいわれており、それが事実であれば、決して二人が不仲であったとは考えにくいでしょう。

また、家康が処刑前の三成に会った際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで、少しも恥では無い」と言い、さらに三成が処刑されるまで潔い態度を崩さなかったと聞いて、「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは人間の出来が違う」と嘆じたというエピソードが残されています。

ここで家康が三成と比較した平宗盛は『平家物語』において、優れた人物である兄・重盛に比べ、愚鈍な上に傲慢な性格で、思い上がった振る舞いが多く、そのために他の氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物とされています。

さらに朝鮮出兵の収拾にあたっては、両者が緊密な連携を見せた例もあり、二人が平素から互いを嫌い合っていたとするのには疑問が残ります。

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