徳川家茂と和宮の夫婦仲は?

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幕末の激動期にあり時代に翻弄された夫婦、徳川家茂と和宮。

二人はなぜ夫婦となり、またどんな結婚生活を送ったのでしょうか。

公武合体のための結婚

二人の結婚式が行われたのは1862年2月11日のことです。この様子というのはそれまでの婚儀とは違う点がありました。それは本来男が主人、女が客分として行われるところが、家茂が客分、和宮が主人という逆転した立場で行われたことです。

なぜ、このようなことになったのかといえば、この結婚の背景に大きな政治的意思が働いていたからでした。

1854年、1858年と幕府はペリー率いる東インド艦隊の軍事力と技術力に圧倒される形で日米和親条約、日米修好通商条約という二つの不平等条約を締結しました。

このことは、物流の混乱をまねき、国内の諸物価を高騰させ、民衆の生活を困窮させてしまいます。

民衆の不満は当然幕府に向かい、幕府への不満と比例するように尊王攘夷運動が高まっていました。

この状況を脱却するために老中・安藤信正らにより推進されたのが公武合体政策です。公=朝廷と武=幕府を結びつけることで幕府による支配体制強化を目指したものでした。

時の天皇である孝明天皇の妹・和宮と将軍・家茂。

二人の結婚はこうした幕府の思惑を民衆にアピールする効果を期待されてのことだったのです。

そのため、征夷大将軍である夫・家茂より内親王である妻・和宮のほうが身分が高くなってしまい、和宮が主人、家茂が客分として婚儀が行われることとなりました。

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和宮の決死の覚悟

当初、和宮はこの結婚を拒否します。

兄である孝明天皇は大変な異国嫌いとして知られており、当然和宮にも同じ思いがあったことと思われます。

開国後、江戸のすぐそばである横浜は開港され多くの外国人が入ってきていました。

今となっては何を怖がることがあるだろうと思ってしまいますが、200年以上も鎖国状態にあった日本人にとって異国人はまさに未知であり、今でいうところの宇宙人に会うような心地がしたのではないかと想像されます。

また、江戸時代も平安時代のような生活を守っていた御所育ちの和宮にとっては、江戸の武士の生活がいかに豪華であったとしても、野蛮だという嫌悪感もあったでしょう。

実際、和宮は結婚の条件として「御所風の生活をすること」を挙げています。

さらに、和宮にはこの時すでに有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたのです。和宮が6歳のときに決められた婚約ではありましたが、11歳年上でそこそこイケメン(?)の婚約者との結婚を楽しみにしていたことでしょう。

しかし、和宮は兄・孝明天皇の説得により降嫁を承諾することとなります。

和宮は降嫁の際、「惜しましな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」という歌を詠んだといわれますが、この歌からは和宮が命を賭してこの結婚に臨んだことが伝わってきます。

幸せな結婚生活

しかし、こうした悲しむべき状況での結婚にも関わらず二人の結婚生活は大変幸せなものだったと伝えられています。

そこにはひとえに家茂の温かな心遣いがあったからといえるでしょう。

家茂は和宮を思いやり、通常多くの側室を置くことができる身でありながら、一人の側室もおくことがなかったのです。

当時家茂は16歳。現代でいえば高校生くらいですが、そんな男盛りのころにも関わらず、和宮一人を愛そうと決意したということからも、家茂の誠実な人柄が伝わってきます。

また、和宮もそうした家茂に次第に心を許していったようで、家茂上洛の際には自らお百度を踏んだことが伝えられています。

お百度というのは、急を要する祈願の際に、社寺の入り口から拝殿・本堂まで行って参拝を百回繰り返すというものです。

裸足で行うとより効果があるといわれています。和宮が裸足になって行ったかはわかりませんが、それでも”妻としての勤め”という以上の和宮の家茂に対する愛情を感じられるエピソードです。

早すぎた家茂の死

ところが、二人の結婚生活は長くは続きませんでした。結婚から4年後の1866年、満20歳にして家茂はその生涯に幕を閉じたのです。

しかも結婚後、1863年、1864年、1865年と上洛し、死去した時も長州征伐のため大阪城に滞在していた時だったというので、二人が共にのんびりと過ごした時間は本当に少なかったことでしょう。

結婚までの経緯も、結婚してからも二人は時代の大きなうねりに飲み込まれていたのです。

家茂からの最後のプレゼント

家茂は和宮との最後の別れとなった長州征伐のための上洛に際し、和宮にお土産は何がいいかと尋ねています。

これに対し、和宮は京の絹織物である西陣織を頼んでいます。

しかし、この西陣織が家茂から手渡されることはありませんでした。

形見としてこれを受け取った和宮は「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」と詠み、家茂の追善供養のための袈裟に仕立てられたそうです。

現在も「空蝉の袈裟」として東京の増上寺に収められています。

死後も家茂の傍に

和宮は明治10年、脚気衝心により死去します。そしてその遺体は和宮の「家茂の側に葬ってほしい」という遺言どおり、東京都港区の増上寺に家茂と並んで葬られました。

 

本来、将軍の墓と妻の墓が横に並ぶことはないのですが、和宮の身分に敬意をはらった結果でしょう。

短い結婚生活にも関わらず、家茂の側で眠ることを選んだ和宮。

江戸に降嫁することとなった和宮の不安や恐怖を和らげ、心の拠り所となった家茂の存在の大きさを二つならんだお墓は感じさせてくれます。

1958年に行われた発掘調査の際、和宮の棺から烏帽子に直垂姿の若い男性の写真乾板が出てきています。

しかし、翌日にはその姿は消えてしまっていたとか。

一体誰だったのか、いまだに不明ですが、その写真はきっと家茂だったにちがいないと考えられています。

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