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豊臣秀頼と千姫の結婚にはどんな意味があった?

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豊臣家の嫡男・秀頼と徳川家の嫡男・秀忠の長女である千姫。

二人は慶長8年(1603)結婚しました。

天下をどちらが握るのかという状況の中で執り行われた二人の結婚にはどんな意味があったのでしょうか。

二人の婚姻を望んだ二人の父親

二人の婚約は千姫の生まれた慶長2年(1597)のことでした。

二人の婚姻を望んだのは当時絶大なる権力を握っていた秀頼の父・豊臣秀吉です。理由は秀吉にとって家康が最も頼りになるとともに、最も警戒すべき人物だったからです。

その翌年秀吉が死去、慶長5年に関ヶ原の戦いで豊臣家と徳川家の勢力関係は逆転しましたが、慶長8年、家康は約束通り千姫を秀頼に嫁がせました。

この時秀頼10歳、千姫7歳。

そこには、秀吉亡きあとも、約束を果たすことによって秀吉恩顧の大名を懐柔し、幕府の支配体制を固めようとする家康のもくろみがありました。

二人の結婚は秀吉と家康、二人の政治的もくろみが交錯するなかで執り行われた、天下を賭けた政略結婚だったのです。

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夫婦仲は?

夫婦仲を見る中で一つの目安とされるのが、二人の間にできた子どもの数です。

しかし、残念ながら12年間の結婚生活で二人の間に子どもは出来ませんでした。

おそらく原因は千姫が若すぎたためでしょう。初潮の平均年齢が12歳ころということですから結婚後5年くらいはそもそも子どものできる体ではなかったはずです。(ちなみに、現在世界最年少で出産をした人物はペルーのリナ・メディナで、5歳7カ月で無事男の子を出産したそうです。)

ですが、二人の夫婦仲は良好だったといわれています。

一番有名なエピソードが、千姫の鬢削(びんそぎ)の儀式を秀頼が行ったというもの。

鬢削とは、女子が成人になった証として、垂髪の鬢の毛を切り削ぐというもので、千姫が16歳のときのことと伝えられています。

そもそも千姫は穏和な性格の持ち主で、その上聡明で美しい女性だったといわれています。そのため、祖父・家康や父・秀忠から可愛がられ、弟・家光とも仲が良く、再婚相手の本多忠刻とも良好な関係だったといわれていますので、人当たりのいい女性だったのでしょう。

二人の間に子どもができていたら歴史は変わった!?

もし、二人の間に子どもができていたら、しかもそれが男子であったら、歴史は変わって、豊臣家が滅びることもなかったのでしょうか。

私は結果は変わらなかったと考えています。そもそも二人は政治的に望まれて結婚しましたが、子どもをつくることは望まれていなかったと思うからです。

豊臣側にしてみれば、千姫の子はあくまで「豊臣家の子」ですが、その子が跡を継ぐことになれば徳川家の発言力が強まることは免れず、ただでさえ力をつけている徳川にこれ以上出てこられては困ります。

また、徳川側からしても、豊臣家の滅亡のチャンスを虎視眈々と狙うタイミングで子ができてしまえば、そのチャンスを逃す可能性もありますし、娘に加え孫まで殺すことになればいくら戦国の世といえども体裁が悪いのではないかと思うのです。

秀頼母子の助命嘆願のため千姫が大坂城を脱出してきたから、徳川側は千姫を殺すことなく大坂の役を終えることができましたが、もし彼女が大坂城に残っていたら、家康も秀忠も、千姫の命を顧みることなく豊臣を攻め滅ぼしたことでしょう。

千姫が秀頼母子の助命を嘆願すると、秀忠は「ではなぜお前は死ななかったのか」と責めたといいます。

娘がいようと、孫がいようと家康の描いた豊臣滅亡のシナリオが変わることは決してなかったのではないでしょうか。

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