武田信玄に子供は何人いた? 後継者の勝頼が四男だったのはなぜ?

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武田信玄の後を継いだ勝頼は、武田家の四男とされています。ということは、勝頼の上にはお兄さんが3人いたっていうことですよね?勝頼はどうして、兄たちを差し置いて信玄の死後、甲斐武田家の当主となったのでしょうか。

男の子で彼だけが正室の出生だったから?-いいえ、勝頼の生母は側室である諏訪御寮人だと言われています。でも、それならどうして・・・?

また、信玄の娘達は何人いてどんな人生を送ったのでしょうか?偉大な父を持ちながらも、案外その子ども達は名前を知られていないと思いませんか。

武田信玄の最初の子は、最初の正室とともに夭折していた

武田信玄こと太郎晴信は、天文2年(1533年)に数え歳13歳で武蔵国・扇谷上杉家の当主である上杉朝興の娘を正室として娶っています。

この女性は翌天文3年(1534年)に最初の子を出産しますが、難産で母子ともに亡くなったと『勝山記・妙法寺記』という文書には記載されています。

この子どもは死産だったこともあり、通常信玄の子どものうちに数えられておらず、性別も不明です。信玄の正式な長男・長女には、後に継室として輿入れした三条の方(三条夫人とも)出生の子たちがあてられています。

武田信玄の子ども達 - 男子一覧

武田太郎義信(1538年生):1565年に謀叛を企てて廃嫡

武田晴信(入道名:信玄)は天文5年(1536年)、姉婿にあたる今川義元の斡旋により、京都の公家である転法輪三条家から改めて正室を迎え入れ再婚します。2人の間に長子として生まれたのが長男である太郎義信です。

1550年に数えの13歳で元服し、従姉妹にあたる今川義元と伯母定恵院の娘:嶺松院と結婚。武勇に秀でて将来を嘱望されていましたが、永禄8年(1565年)に謀反を計画した密書が発覚して廃嫡され、幽閉されます。嶺松院とも離縁になりました。1567年に自害。享年30歳。

義信が謀反を企てた背景には、定恵院と今川義元の死後、甲駿同盟を破棄して織田家との関係強化を図る信玄と、妻の縁から親今川派だった義信の対立があったと言われています。

武田竜芳(海野信親)(1541年生):視覚障害があり半俗半僧だった

次男。生母は正室三条の方。

幼少期より盲目だったと伝わっています。竜芳(竜宝とも)と号して半俗半僧の形で修行し、家中では御聖導(ごしょうどう)様と呼ばれていました。

後に信濃国小県の国衆、海野幸義に婿入りして海野信親を名乗ります。天正10年(1582年)に織田信忠によって殺害。享年42歳。

武田(西保)三郎信之(1542年生):西保家を継承するも夭折

三男。生母は正室三条の方。

幼少時に親族である西保家を継ぎますが、早世したと伝わります。一説に天文22年(1552年)没。享年11歳。

武田(諏訪)四郎勝頼(1546年生):義信の廃嫡により、継嗣と定められる

四男。生母は側室の諏訪御寮人。

当初は母の実家である諏訪氏を継承し、信濃高遠城主として諏訪勝頼を名乗っていました。実名に武田家男子の通字である『信』の一字が入っておらず、諏訪家の通字『頼』がつけられているのはそのためです(注:諏訪御寮人の父は諏訪の領主だった諏訪頼重)。

しかし、長兄の義信が廃嫡された後に、次兄の信親が視覚障害者で三兄の信之も早世していたため、急遽武田本家の後継者に据えられました。

元亀4年(1573年)、父信玄の逝去によって第20代の甲斐武田家当主に就任。天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗。天正10年(1582年)、天目山の戦い後、自害。享年37歳。嫡子信勝も時を同じくして自害し、甲斐の名門・武田家は滅びます。

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仁科五郎盛信(生年不明):勝頼に仕えて高遠城で壮烈な討死

五男。生母は側室の油川夫人。出生は1557年という説も。

父:信玄の意向により、幼少期に信濃国安曇の仁科家を継承します。

父の死後は当主となった兄:勝頼に仕えました。次第に求心力を失っていく勝頼を見捨てることなく、天正10年の織田信忠による甲州侵攻の時は高遠城に籠城して抗戦します。奮戦したものの、5万の大軍に押されて最後は落城し、自刃。

しかし、その戦いぶりの勇猛果敢さは「比類なき働き、前代未聞の次第なり」(信長公記)と敵方からも賞賛されました。

仁科五郎は領民にも人気があったと言われており、今でも長野県の県歌には彼の名前がおり込まれています。

葛山十郎信貞(生年不明):勝頼自害時に甲府で自刃

六男。生母は側室の油川夫人。出生は遅くても1559年以前だろうと言われています。

駿東郡の葛山家へ養子に出されました。天正10年、織田信忠の甲州侵攻時に兄勝頼が亡くなると、信貞も甲府の善光寺にて自刃。

武田玄竜/安田三郎信清(1560年生):江戸期まで生存

七男。生母は側室の禰津御寮人。出生は1563年とも。

初め出家して玄竜と号しますが、勝頼の求めによって還俗し、安田家の養子に入って安田三郎信清を名乗ります。甲斐武田家の滅亡後は姉妹の嫁ぎ先である上杉景勝の許に身を寄せ、寛永19年(1642年)に死去。享年83歳(または80歳)。

武田信玄の子ども達 - 女子一覧

黄梅院(1543年生):北条氏政正室

長女。生母は正室三条の方。実名は不明。

天文23年(1554年)、相模の大名北条氏康の嫡男である氏政の正室となります。氏政の嫡男氏直など子どもにも恵まれ、夫婦仲は良好でしたが、永禄11年(1568年)の末頃から武田家と北条家の関係が悪化し、離縁されて甲斐へ返されます。1569年死去。享年27歳。

見性院(生年不明):穴山信君正室

次女。生母は正室三条の方。生年と共に実名も不明。

武田家親族衆筆頭の穴山信君(梅雪)正室です。夫の死後は徳川家に保護され、江戸城に住んで徳川秀忠の庶子である保科正之を養育したと伝わっています。1622年死去。

眞龍院(1550年生):木曾義昌正室

三女。名は真理姫と伝わります。生母は三条の方、または油川夫人とも。

木曾義昌に嫁ぎましたが、夫の義昌が兄勝頼から離反するとこれを悲しみ、自ら離縁を申し出て木曾山中でひっそりと暮らしたとされます。1647年死去。享年98歳。

松姫(1561年生):織田信忠の婚約者

五女。戦国女性には珍しく実名が伝わっています。生母は油川夫人。

1567年に織田家嫡子:信忠との婚約が成立し、松姫は信忠正室として新館御料人と呼ばれました。(但し双方とも若年のため、輿入れはせずに甲斐に留まります。)

信忠と松姫はお互いに文を交わしあい、想いあう仲だったようですが、元亀3年(1572年)に武田家と織田家の仲が決裂し、婚約は解消されてしまいました。1582年に織田信忠が信濃高遠城を攻めて兄の仁科盛信と戦っていた時、松姫も高遠城にいたと言われています。

武田家滅亡後に松姫は八王子へと落ちのび、探し当てた信忠から迎えを遣わされますが、今度は本能寺の変(1582年)で信忠が自刃してしまいました。悲しんだ松姫は出家して信松尼と称します。1616年死去。享年56歳。

なお、信玄の四女は1558年に夭折しているため、松姫は五女にあたるといいます。

菊姫(1563年生):上杉景勝正室

六女。松姫と同様に実名が伝わっている女性です。生母は油川夫人。生年は1558年で信玄の五女という説もあります。

天正7年(1579年)、兄:勝頼の政略により越後の上杉景勝に正室として嫁ぎます。以後、上杉家では阿菊御寮人、甲斐御前、甲州夫人等と称されました。景勝との間に子どもは生まれませんでしたが夫婦仲は良かったと伝わっています。

1604年、伏見の上杉邸で死去。享年42歳(または47歳)。

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最後に

戦国武将のように側室が何人もいると、やっぱり子どもの数も現代よりは多いですよね。

それに、こうしてみると、信玄の子女は長生きした人も若くして亡くなった人も波瀾万丈の人生を送っているなあ思い、しみじみと戦国の世を感じます。

特に、女性達が家の都合に翻弄されて悲しみの多い人生を送ったことが印象的でした。皆様は、どのように感じたでしょうか。

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ナカガワ マスミ

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投稿者プロフィール

戦国時代から昭和史まで、歴史には幅広く興味を持ち、色々調べ出したら止まりません。
合戦の話も好きですが、文化史が特に好き。そういう意味では平安中~後期も愛していますね。
皆様にも是非「歴史って面白いんだ!」と思って頂きたいと思いながら、記事を書いています。応援よろしくお願いします。

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