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武田信玄の兜に込められた意味は?

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信玄といえば、よく手に軍配団扇を持ち、白い毛のついた兜をかぶった姿で描かれます。

信玄のトレードマークともいえるこの兜にはどんな意味がこめられているのでしょうか。

諏訪明神信仰

前で触れた「白い毛のついた兜」は正式には「諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)」といいます。

前立てに鬼の赤い顔があり、その角は大きく黄金に輝いています。そして頭のてっぺんから肩にもかかるほどの長さの白いヤクの毛が兜を覆っています。そのことから「白熊(はぐま)の兜」ともいうそうです。

ヤクというのは標高4000m~6000mといった高地に生息するウシ科の動物です。

日本一高い山は標高3776mの富士山ですから、当然日本には生息しておらず、ヤクの毛は中国との貿易によって日本にもたらされました。

家康はヤクの毛をあしらった兜をいたく気に入っていたようで、自ら「家康に過ぎたるもの」として、本多平八(忠勝)とヤクの毛をあしらった兜を挙げています。

信玄所用といわれる諏訪法性兜は「日本最高の甲冑師」と評された明珍信家の作といわれ、信玄は出陣のたび、諏訪明神から借りて着用していました。

この諏訪明神は、古来より日本第一の大軍神として信仰されており、武田氏も代々諏訪明神を崇敬していたとされています。

特に信玄は諏訪明神を厚く信仰していて、諏訪法性の旗を軍記として使用するほどでした。

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勝頼に譲る

この兜が信玄所用の兜として知られる理由は『甲陽軍鑑』の「品第三十九 信玄公逝去につき御遺言の事」の中で、勝頼に譲ると記されていることにあります。

また、「品第五十二 長篠合戦の事」には勝頼が長篠の戦いにこの兜を持っていったことが記されています。

しかし、長篠の戦いが起こったのは5月21日。暑くて被っていられないということで家臣に持たせていたとか。しかも、重くて邪魔だったのか捨ててしまいます。その後、捨てるのはいけないということで拾った人がいて、それが今に伝わっているというわけです。

もしかして長篠の戦いに勝頼が負けてしまったのは、諏訪法性の兜をかぶらなかったから、その祟りだったのかもしれませんね!

実際に着用したかは謎

ここまで由緒正しい感じに紹介してきましたが、実際に信玄が着用したかはわかっていません。

というのは、現在諏訪湖博物館に残されている諏訪法性兜の内側に記されている製作年は文永5年、つまり1268年、製作者は明珍信家とされていますが、明珍信家が活躍したのは文明18年~永禄7年、つまり1486~1564で、時期に早くとも200年以上の差があるからです。

また、兜の大きさや前立ての鬼と角などには戦国時代の特徴が見られるものの、後世に手が加えられているところも多く、装飾的であるともされています。

そのため、現在残されている諏訪法性兜を信玄が着用したかには疑問が残ります。

それにも関わらず、この兜が信玄所用の兜として広く知られているのは、江戸時代の人形浄瑠璃で後に歌舞伎でも上演された「本朝廿四考」で勝頼を慕う謙信の娘・八重垣姫が、諏訪法性兜を捧げ、諏訪湖を渡る姿が描かれたことが理由ではないかと考えられているようです。

明珍信家と信玄の不思議な関係

明珍信家の「信」の字は信玄の諱である晴信の一字を賜り改名したものという言い伝えがあるそうです。

信玄所用の兜とされるものには他にも明珍作とされる兜が多く伝えられており、信玄と信家との度々の交流がうかがえます。

しかしながら、明珍信家が寵愛した白井城(現在の群馬県)の城主・長尾憲景は、永禄10年(1567)に信玄の上野侵攻で白井の所領を失い、越後の上杉謙信の許へ逃れています。

信家がどれほど憲景を朝愛していたかはわかりませんが、25歳も年の離れた若き城主を息子のように可愛がっていたとすれば、信玄によい印象を持っていなかったかもしれません。

「日本一の甲冑師」と評された信家ですから、敵味方関係なく顧客としていたとは思いますが、越後に住んだ信家がなぜその領主・上杉謙信のライバルである信玄から一字賜ったのかには疑問が残ります。

そこにはまた別の信玄の人柄にも関わるエピソードがあるのかもしれませんが、何だか不思議な気がしてしまいます。

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