高杉晋作と坂本龍馬の出会いが明治維新の引き金となった

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長州藩の二百石取りの中級家臣の家に生まれた高杉晋作と、郷士株を買って下級武士となった土佐藩の商家の出の坂本龍馬。
泰平の世ならばこの二人は出会うことすらなく、それぞれの人生を歩んでいたでしょう。

しかし、時代の流れは高杉晋作と坂本龍馬を運命的に結びつけ、二人の出会いが薩長同盟という明治維新のエネルギー源となって、世の中を大きく変えていくことになりました。

ここでは、二人の関係をいくつかのエピソードを追う形で見ていきましょう。

高杉晋作から贈られたピストルで難を逃れた坂本龍馬

高杉晋作と坂本龍馬の信頼関係を示すエピソードのひとつに、慶応元(1865)年に高杉が龍馬に拳銃を贈った話があります。

当時、アメリカの南北戦争終結で余剰になった小銃は大量に日本に輸入されていました。しかし、護身用的な要素の強い拳銃は小銃ほど多量には輸入されず、存在自体が貴重なものでした。

それを五言絶句の漢詩を書いた色紙とともに惜しげもなく龍馬に贈っているのは、高杉が龍馬を信頼し、この拳銃でその身を守って欲しいという気持ちの表れだったのでしょう。

高杉晋作が拳銃を手に入れたのは留学していた上海時代で、当時としては最新型のスミス・アンド・ウエッソン社のモデル2アーミーというタイプでした。

スミス・アンド・ウエッソン(S&W)はコルトと並ぶアメリカを代表する銃器メーカーですが、安政3(1857)年に世界で最初の22口径の金属薬莢を使ったモデル1を製造して注目を浴びます。
従来の拳銃は、弾倉に黒色火薬を詰め、その上から弾丸を込めて密封するという手間のかかるものでしたから、弾丸と薬莢が一体になって装弾しやすいこの拳銃は護身用として高い評価を得ました。

しかし、22口径という小さな弾丸を使うために殺傷力が弱く、軍用には適していませんでした。
そこで、文久元(1861)年、銃の機構はそのままに口径を一般的な32口径に広げるとともに、装弾数を5発から6発に増やしたモデル2アーミーを発表します。

この年に南北戦争が勃発したことから多くの兵士がこの銃を買い求めたのですが、コルト社の軍用拳銃M1848ドラグーン・モデルの44口径に比べて威力が低いということで、軍用としては制式採用されずに終わりました。

この銃の特徴のひとつに、回転式の弾倉を銃から外すことで弾込めの時間を短縮できるという点がありました。
ところが、便利なはずのこの機構が、龍馬に思わぬアクシデントを引き起こすことになるのです。

龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を常に身につけ、慶應2(1866)年の寺田屋事件の折りもこの拳銃を撃って難を逃れます。しかし左右の親指を負傷していた龍馬は、傷ついた手で弾を込めようとした際に、弾倉を落としてしまったのです。乱戦の中で弾倉を拾う余裕もなく、龍馬は役に立たなくなった拳銃本体も捨ててしまいます。

こうして高杉晋作から贈られた拳銃は、龍馬の命を救うのと引き換えに廃棄されてしまったのです。

拳銃の威力を認識した龍馬はその後、自ら拳銃を入手し、妻のお龍と一挺ずつ所持することになります。その拳銃はモデル2アーミーの原型となったS&Wモデル1だったと言われます。

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長州海軍と共に幕府艦隊と戦った坂本龍馬

高杉晋作が拳銃を贈った事実からも明らかなように、高杉と龍馬は生涯に何度も出会いをはたしています。しかし、文献で確認できる二人の会合は意外に少ないのです。
そんな中で、慶応2(1866)年6月16日の下関での会談は、龍馬の書簡によって確認できるもののひとつです。

元治元(1864)年の第一次長州征伐の後、長州藩は次なる幕府との戦いに備えて武備を強化していました。
その一環として入手したのがイギリスの木造蒸気船ユニオン号でした。

嘉永6(1854)年にイギリスのロッテルヒーテで建造されたこの排水量300トンの機帆船は、上海を母港としていましたが、軍艦の欲しい長州藩は長崎のグラバー商会に依頼してこれを5万両で購入しようとします。

もちろん、幕府の監視の中、長州藩が軍艦を購入するのは至難の業でしたから、長州と薩長同盟を結んだ薩摩がこれを購入。それを坂本龍馬の率いる亀山社中が操船するという形にして、長州藩に送り届けます。

慶応元(1865)年、現地で購入した7300挺の小銃と共に上海を出航したユニオン号は、無事に長州藩の支配下に入り名前も乙丑丸と改められます。
その後も亀山社中が運用することとなった乙丑丸は、慶応2(1866)年6月16日に下関に入港し、坂本龍馬は船上で高杉晋作と今後の情勢について会談します。

この時、高杉は龍馬に、迫り来る幕府艦隊との海戦への参加を依頼しました。 龍馬はこれを承諾し、翌6月17日に乙丑丸は、海軍総督となった高杉晋作が座乗する丙寅丸とともに出撃をします。 乙丑丸の指揮を取るのは坂本龍馬、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長という顔ぶれでした。

こうして、龍馬は下関海戦で実戦に参加した後、乙丑丸を長州藩に引き渡して長州を去ることになります。

By: gtknj

薩長同盟の実現に奔走する坂本龍馬と長州藩内でこれを進めた高杉晋作

下関海戦から遡ること半年前、慶応2(1866)年1月21日、京都の薩摩藩家老小松帯刀邸で長州と薩摩が秘密裏に手を結ぶ薩長同盟が成立します。

元治元(1864)年の禁門の変以来宿敵だった薩摩と長州を結びつけるという難事が成功したのは、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、長州藩の高杉晋作、木戸孝允といった両藩の英明の士に加えて、これを斡旋してきた土佐出身の坂本龍馬、中岡慎太郎らの志士が力を尽くしたからでした。

この同盟締結も直前まで薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎の話し合いが合意に達せず、いつ決裂してもおかしくない状況になっていました。

下関で高杉晋作らと薩長同盟について協議を重ねていた坂本龍馬は1月20日に上京、未だに同盟が締結されていないのを知ると、桂と西郷を説得し自らが立会人となってこれを締結させます。

すでに土佐藩士でもなく一介の浪人に過ぎなかった龍馬が、薩長両藩の軍事同盟のオブザーバーになるというのは平時では想像もできないことでしたが、日本を巡る世界情勢が急転しているこの時とあっては、龍馬のような実行力のある人材が信用を得ていたというのも納得のできる話です。

ともあれ、倒幕のために薩摩との同盟を画策した高杉晋作、そしてそれを実現させた坂本龍馬。この二人の存在がなく、また二人が出会っていなかっとしたら、幕末の様相も大きく変わっていたことでしょう。

そして、大きな役割を果たした二人が、ともに明治の近代日本を見ることなく歴史の舞台から退場して行った事実を見るにつけ、人には天命というものがあるということを思わざるをえなくなるのです。

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