高杉晋作 その死因と病気とは!?

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高杉晋作は、長州藩から出た幕末の偉人の一人です。

その人生は破天荒で、豪快、無謀の一言でまるで漫画のようです。たった29年の人生を太く破天荒に生きた彼はどんな人間だったのでしょうか。

子供の頃、処刑された生首を見て度胸試し

高杉晋作は、幼少期から身体が弱い少年でしたが、桁外れの度胸がありました。

その頃の彼はどこどこで処刑があると聞くと、たった一人で処刑場まで出向き、生首と長時間、にらめっこしていたそうです。

外国の公使館を焼き討ちするテロリスト

藩のお金で上海を視察して、西洋人に奴隷のように扱われる清国人を見た高杉はこれは未来の日本の姿だとして、徹底した攘夷論者になります。

そして、外国公使館を焼き討ちするなどのテロ行為を繰り返します。それには後に初代内閣総理大臣になる伊藤博文も子分として従っていました。昔の千円札の偉人、伊藤博文は前歴がテロリストだったのです。

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領土の割譲を阻止した魔王のような男

1863年の馬関事件で、外国船を攘夷の名の下に砲撃した長州藩は、報復として1864年にイギリス、フランス、オランダ、アメリカ4カ国連合艦隊の攻撃を受けて惨敗します。

これを馬関戦争と言いますが、勝った連合国は長州藩に対して彦島の割譲を要求します。ここで、高杉晋作は、架空の家老に成り済まして終始傲岸不遜に振舞い神がかりの言葉で連合国を煙に巻き、とうとう彦島割譲を断念させました。通訳だった英国人、アーネスト・サトウは高杉を「魔王のようだった」と述懐しています。

たった84名で、挙兵して藩の実権を奪いかえす

馬関戦争で弱体化した長州藩は、幕府による長州征伐にも敗北します。そして、藩内から攘夷派は一掃され、幕府追従の俗論派が藩政を牛耳ります。高杉晋作も目の敵にされて逃げ回る羽目になりました。しかし、正義派の家老が処刑されるに至って高杉は藩に戻り、たった84名の同士と一緒に功山寺で挙兵します。

絶望的な戦争で高杉は死を覚悟しましたが、挙兵の知らせは他の奇兵隊を呼応させる事に繋がり、遂に俗論派を太田・絵堂の戦いで撃破して藩論を再び倒幕に戻す事に成功したのです。

第二次長州戦争に勝利、しかし病魔が高杉を襲う

第二次長州征伐は、薩摩が幕府軍から抜け、諸藩の軍も足並みが揃わぬ中4000名の長州軍、そして高杉の奇兵隊の独壇場になっていきます。

そして、15万人の幕府軍は14代将軍徳川家茂の死去により撤退を余儀なくされます。しかし、長州の勝利の中で、高杉の身体はすでに結核に侵されていました。

当時の結核は特効薬が無い不治の病で、治療法は静養しかありませんでした。

野村望東尼と愛人おうのに看病され29年の生涯を閉じる

1866年の10月には、高杉は下関桜山に庵を結んで、愛人おうの、そして、勤皇家の歌人、野村望東尼の看病を受けながら静養をします。しかし、生来の酒好きはとまらず、気分の良い日は、吉田松陰の墓前で酒を飲んでいたと伝えられています。

闘病半年、1867年4月14日に高杉は死去しました。

晩年の高杉は、動かない身体で、野村望東尼と頻繁に歌のやりとりを繰り返していました。

愛人であったおうのは、二人の歌のやりとりを伝える役割を果たし、階段を上り降りして、足が疲れる程だったそうです。

面白き ことも無き世を 面白く すみなすものは 心なりけり

この有名な短歌は、この頃に詠まれたものです。

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